柏木真樹 音楽スタジオ

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先日来、いろいろなサイトや掲示板で見た、「平均律の音をバラバラに覚える」音感教育を唱える先生の多さに絶望しているのですが、そんな中で興味あるやりとりがありました。それは、「平均律で調弦ができるだろうか」という問題です。「調弦は平均律ですべき」と主張している先生が意外に多いのです。

普段、純正の五度に調弦する習慣があるプレーヤーでも、ピアノと演奏するときなど、調弦を「やや狭めに」合わせることがあります。そうすると当然五度は「普通 に演奏したのでは合わない」状態です。しかしながら、ヴァイオリンの音程は弓の重さのバランスなどでかなり変わりますから、そうした調弦でも実際に開放弦の五度を弾くときには、「無意識に正しい音程になるように右手で修正する」ことができるのです。これは、ピアノでよい音程に聞かせることよりははるかに易しい。もちろん、正しい耳があることが前提になります。

調弦を平均律ですべきだと主張する先生達の多くは、この「ピアノと合わせる」ケースを例にされます。ピアノとの整合性がなくなってしまう純正の五度調弦の問題点を強調されるわけです。その背景には、(好意的に考えれば)ヴァイオリンの音程が可変であること、開放弦を避けることができること、といった現実の演奏法に則った経験があるのではないか、と推測します。つまり、「平均律に調弦する」ということは、純正の音の間隔を判別 できる耳を持って、その耳から得た情報を瞬時に楽器の演奏に反映できる能力がある人にとっては、「不自由でない」ものになる可能性があります。

仮にそういった先生達が、「自分はできるのだから」と考えてレイトスターターに「平均律に調弦しなさい」と言っているのだとしたら、これは大きな勘違いです。(もちろん、レイトスターターの中にそういった能力を持っている人が偶然いらっしゃることを否定はしません。)

まず、調弦そのものの問題があります。ここに興味深い資料(音程の話・リサージュ図形平均律の場合)があります。まずご覧下さい。

説明にあるとおり、これは二つの音が作る波形を視覚的にわかりやすいようにしたものです。純正にあっているものでも、オクターブ、五度、四度と、波形が複雑になっていくのがわかりますね。この波形は、平均律の時、「最終的に真っ黒に」なってしまいます。

耳で「音高」を覚える場合、単音であればどんな音でも「難しさは同じ」です。例えば、442HzのA音を覚えた場合、次に純正に五度低いD音を覚える作業と平均律で取ったD音を覚えることは、独立して覚えるのであれば同じ難易度だと考えて良いでしょう。ですから、「音感を鍛える」ということを「音高を単音で独立して覚える」と考えれば、平均律でとった音を覚えることにはそれなりの意味があります。何故かというと、調性に従って変化するピタゴラスの音階全てを覚えることは、単純化した平均律で覚えなくてはならない音の数よりたくさんのものを覚える必要があるからです。ですから、「音高を鍛えて覚える」ことだけが目的であれば、平均律の進行に従って音高を覚えた方が「楽」な訳です。ところが、実際には、こういった「音高を覚える」作業は、多くの人にとって「不可能」です。絶対音感を持っているか、ないしは非常にハードな訓練をしなくてはならないからです。

しかし、ここに「二つの音」という要素が加わると、事情が一変します。純正な二音は、「耳に覚えやすい」のです。このことを、このリサージュ図形は物語っています。平均律で五度を覚えることは、この「真っ黒になる」振動を記憶することに他ならないからです。こんなことはできないと言ってもいいでしょう。単純な整数と無限に続く数字を覚える作業を比較するようなものなのです。

調弦を平均律でする、ということは、このように「とても困難な」作業なのです。もちろん、純正に五度を合わせ、それをやや狭くする ~ チューナーで確認する、という訓練をくり返し、平均律が発する「響きなどの他の要素」を記憶することは可能でしょう。そうして最終的に平均律の五度で合わせることが出来るようになったプレーヤーもいると思います。しかし、それは「あくまで例外」なのです。

純正の二音の間隔を理解できるようになり、ヴァイオリンを純正な五度で調弦できるようになると、スケールを弾くときのガイドが得られます。このガイドを上手に利用して「旋律的な」スケールの音程を理解することは、平均律の二音の間隔を覚えることとは比べものにならないくらい「自然な」ものなのです。

二音を同時に鳴らしていると、二音以外の音もします。「差音」と呼ばれるものもその一つです。(差音とは、読んで字のごとく、二つの音の周波数の差の音のことです。)この「差音」も、実はヴァイオリンの音程に深く関わって来るものですが、この点については「初めのうちは」無視してもいいと思います。(これは、あくまで僕が関わってきたレイトスターターとのやりとりで得た結論です。「差音」を重視し、きちんと聞く訓練をすべきだ、という方もいらっしゃいます。ただし、「差音」も、平均律で二音を取った場合「どの音ともはもらない」音になります。「差音を聞いたら平均律の方がきれいに聞こえる」ということは普通 はないと思います。(注))

(注)ないと思います、と断定しないのには訳があります。全ての音の間隔で差音を計算した場合、平均律の方がより整数比に近い場合が存在する可能性を検証していないからです。

(注2)二音が作る不思議な世界は、アンサンブルのレッスンの方でしばらくしたら書こうと思っていることです。簡単な例をあげます。適度に響く広い部屋で、純正にあった五度をならします。すると、純正にあった五度のちょうど「気持ちの良い」三音が聞こえるはずです。とても弱い音なので、条件が整わないと聞こえませんが、初めて出会うとちょっと不思議な気持ちがします。「ドレ会」では何回も実験してみたのですが、ほんの数回しか「聞こえた」という人がいませんでした。

というわけで、耳を鍛えるためにも、将来のことを考えても、調弦は純正な五度でできるように頑張りましょう。

さて、実際にヴァイオリンを始めようとします。楽器を買って、教則本を買って・・・ちょっと待ってください。ヴァイオリンを弾くために、レッスンは必要不可欠でしょうか。また、そうであるならば、どのような先生が良いのでしょうか。(実は、このテーマは「大人になって始める楽器」にかなり詳しく書きました。書いてから10年たって、私も経験値が上がり、いろいろと書き足りないことも出てきたのです。ですから、この章は、この「大人になって始める楽器」の項目のヴァイオリン向け改訂版という位置づけです「大人になって始める楽器」から転載した文章も多いです。)

◎ レッスンでは何が行われるのか ◎

大人になるまで、いわゆる「正規の」教育や受験産業などしか経験のない人にとっては、「レッスン」というものが想像がつかないかもしれません。ここでは、一体「レッスン」というものはどのようなものかということを書いてみようと思います。

楽器のスキルや音楽を学ぶためには、いろいろな手段が考えられます。個人的に教えている人のところへ行って、その楽器について、また音楽についてのいわば「大先輩」である先生のところで学ぶ、ということも一つの手段です。また、「×××音楽教室」などと銘打った教室に通 うことも一つの方法でしょう。ここでは問題にしませんが、「レッスンヴィデオ」などと銘打ったものもあるようです。レッスンについて、少し説明してみましょう。

楽器を演奏するための技術などを習得する

どなたも一番始めに思うことは、「楽器を演奏する技術を手に入れる」ということではないでしょうか。レッスンでも当然このことが大きなテーマです。特に、始めて楽器を手にしたとき、持ち方(構え方)、指の動かし方などなど、わからないことだらけです。

まず楽器を持つ。

どんな楽器でも、「合理的な」楽器の持ち方があります。ここで「合理的」という意味は、「良い音がして」「体に無理がなく」「運動性能が優れている」ということが基本になります。と同時に、これが結構やっかいです。

プロやベテランのアマチュアが演奏している姿やレッスン用のヴィデオなどを見ると、だいたいどのように持っているか、ということは見えますね。それをまねしてみます。どうもうまくいきません。

楽器による差はもちろんあります。私が自分でレッスンについた経験のある楽器で言えば、フルートは比較的わかりやすかったです。ヴァイオリンはとてもそうはいきません。(だからフルートがやさしい、といっているのではありません。人の格好を見て持ち方を理解しやすい、という事実だけを比較しています。)

合理的な持ち方をしようと思うと、いろいろな条件を満たしていなければなりません。力が入っていては運動性能が落ちますし、音もよくでません。また楽器を保持することで疲れてしまいます。こういういろいろなことを考えながら、先生は「持ち方」を教えてくれるでしょう。

そして音を出す。

管楽器の場合、口の中が大問題です。外からは見えませんしね。口の形、くちびるの使い方、舌。さらに呼吸法。そういったもろもろを、先生はわかりやすく、効率よく、教えてくれるでしょう。弦楽器の場合は、弓の使い方が問題です。細かく書き始めると大変なのでここでは触れませんが、手の形、大きさ、腕の長さ、関節の固さ・・・などによって、なるべく音を出すために合理的な持ち方、手の使い方を作っていこうとするはずです。

そして、いわゆる「技術」

レッスンは、実際に指や口を使っていろいろな音を出す、さまざまな曲に対応できるような「奏法」をマスターしていく。そういう「奏法」をみせてもらえる場でもあります。同じ音を出すのでも、いろいろな出し方がある場合もあります。なめらかな音がほしいところ、はっきりした音がほしいところ、強い音、弱い音。いろいろな音を出すためには、いろいろな技術を使います。それらをレッスンの場で「知り」「理解し」て、練習します。

これらのことを、実際にやらせてみたり、お手本を示したり、場合によっては「理屈」を説明しながら、生徒が理解し技術を習得できるようにする場所がレッスンです。

練習法を伝える・考える

楽器の演奏をするための技術を身につけるためには、レッスンの時間だけでなく、レッスンとレッスンとの間の時間をどう使うか、ということが大問題です。そのあいだ、アドヴァイスを与えてくれる人がいないところで練習をしなくてはなりません。そのためにどうしたらよいか、ということを一緒に考え、また練習法のヒントを与えてくれる場所がレッスンです。

先生は、いろいろな練習曲を与えてくれるはずです。また、曲以外にも、ただ長い音を出す(ロングトーン)ことや、音階(スケール)などの課題をだされるでしょう。それを自分でこなさなくてはなりません。

レッスンとレッスンの間、もし間違った練習をしてしまっては、せっかくの時間が無駄 になるばかりでなく、悪い癖がついてしまうこともあります。ですから、そういう回り道を少なくするために、先生は「なぜこの練習をするのか」「何を考えて練習しなくてはならないか」ということをおっしゃるでしょう。そのことをよく理解して、練習の時間が効率よく使えるようにしたいですね。ですから、レッスンで課題を与えられたら、たんにそれを繰り返し練習するだけではなく、頭を使って「何のために」「なぜ」その練習をしているのか忘れないようにすべきです。そうすると、レッスンが有効に使えます。

また、その人にあった練習法を一緒に考える場でもあります。

ほとんどの先生は、ご自分にとっていちばんしっくりくる練習法を持っています。しかし、その練習法がすべての人にあてはまるかどうかはわかりません。特に大人になってから楽器を始めた場合、体に無理な負担がかかって痛めてしまうこともあるかもしれません。ですから、先生にとっても新しい生徒がくると、「この生徒の場合はどのような練習がよいか」ということを「実験」してみる場でもあるのです。場合によっては「ああやってごらん」「こうやってごらん」と、いろいろな方法を試されるかもしれません。そうしたら、その場でその意味を理解して、自分に一番合った練習法を見つけていく、そして、その練習が合理的であるかどうかを判断してもらう。レッスンとはそういう場でもあります。

先生は一番わかってもらえる「耳」です

レッスンの意味で、どんなに強調しても強調しすぎでないものがこれです。

特に大人になってから楽器を始めた場合、自分の出している音を正確に判断することができるようになるまでにある程度の時間がかかる場合が多いでしょう。そんなときに、出ている音からいろいろなことを判断してもらえる、ということが、レッスンの最大の効用です。

音の間違い、音程やリズムなどのように、比較的初期の段階で判断できるようになる可能性が高い要素もあります。これにももちろん個人差がありますが、人によっては「音程とリズムならすぐにでも判断できる」という人も少なくないかもしれません。しかし、レッスンで先生に判断してもらえる要素は、こういったものだけではありません。音質から「右手に余計な力が入っている」とか、「手首が固い」「息のスピードが遅い」「唇の形がおかしい」などということなどもわかります。

音楽を聴くことには慣れていても、自分の出した音が実際にどのようなものか、ということを判断することは別 の次元の問題が生じることも多く、なかなか正しく判断できません。先生は、レッスンで生徒が弾いている音を聞いて判断し、それを生徒に伝えることができます。いわば、「医者」のような役割を果 たすことができるのです。(先生には知識や経験がないと「誤診」してしまうこともあるかもしれません。だから、先生の選び方も重要なポイントです。)自己判断ができるようになるまで、先生の医者としての役割は、とても重要なものです。そして、何か問題が発見されれば、それに合った処方箋を書いて、生徒に示すことができるわけです。

そして、レッスンが進んでくると、その耳がいつのまにか生徒の側にもついてくるのです。

音楽的なこと

これは、その生徒の音楽的経験値、理解度、先生の状態、によって全く異なる部分です。ですから、あくまで「理想的な」もの、と考えてください。

楽譜に書いてある音を再現することが、楽器を演奏する作業です。楽譜を見てすべての人が同じように感じるのであれば、演奏は一通 りになるはずですね。しかし現実には、テンポにしても強弱にしてもフレーズ(音のつながり、旋律の感じ方)にしても千差万別 です。なぜこういうことが起きるのかというと、「考え方・感じ方の差」とでも言ってしまうしかありません。楽譜に書いてあることの意味をどうとらえるか、というだけで、大論争がおきます。しかし、この「論争」には、ある前提があります。その前提が「音楽的な常識」です。もちろん、一般 に信じられているものがすべて「音楽的な常識」ではありません。「常識とは何か」ということですら、論争になります。これを言い出すとここでは収拾がつかなくなりますから、「演奏する場合に知っておかなくてはならない音楽上の約束などがある」というくらいに理解してください。レッスンでは、そういった「必要なもの」を提示され、自分のものにしていく作業が行われます。

その上で「表現」ということがテーマになります。ある音楽をどのように感じるか、また、感じていることと実際にでている音が本当に一致しているのか、といったことを確認することができます。また、「いろいろな感じ方を知ることができる」ことも、レッスンの重要なポイントです。ある表現が先生の感じ方と違う場合、先生は、何通 りもの表現を見せてくれるかもしれません。そしてその中に、自分が「思いもつかなかった」すばらしいものがあるかもしれません。そのような表現を知り、自分の表現を作っていく作業をするために、レッスンはとても役に立つでしょう。また、「あの人のように演奏したいのだけどどうしてよいかわからない」という場合でも、その方法を見せてくれるかもしれません。そのような経験をレッスンの場で積んで、次第に自分の表現を獲得していくことができるようになるでしょう。

◎ レッスンは必要不可欠か? ◎

結論から書くと、「効率よく上達するためには、個人レッスンはどうしても必要」だと思います。

楽器を演奏する、ということは、あくまで個人的な作業です。合奏などをすることも、個人の作業の積み重ねでしかありえません。ですから、個人的な練習、上達が、どうしても必要になると思います。また、大人から始める人には、 「オーケストラにまざりたい」「アンサンブルをしたい」「あの曲が弾きたい」などといったような「目標」「希望」があることが多いのではないでしょうか。年齢や練習時間といった「時間の制約」もあります。ですから、なるべく効率よく上達することが必要になるでしょう。試行錯誤する余裕が十分にあるのならともかく、それがない状態での独習はかなりしんどいものだと思います。

テキストやヴィデオを使って独習は不可能か?

楽器を演奏すると言うことは、非常に個人差の大きなものです。私はヴァイオリンを弾いていますが、いままでついた先生は、全員、全く違うボウイングをしていらっしゃいました。楽器の技術を学ぶということは、「よい音をだすための武器を手に入れる」ということだと思います。その武器は、体格や体の柔軟性によっても、全く異なります。ですから、目的のためにもっとも適した武器を、生徒と先生が共同作業で見つけていくことが、技術の習得には欠かせないと考えます。先生は、それまでの経験によって、いろいろな可能性を提示することができるでしょう。その中から最も合うものを探し出して行く作業ができることこそ、特に大人になって始める(すなわち、自分で考えることができる)人には理想ではないでしょうか。先生と呼ばれている人は、おおかた小さい頃から楽器を練習してきています。ですから、自分のたどってきた道筋があります。そして、それに加えて、いろいろな奏法や教え方を学んできたはずです。ですから、「こう弾くべき」という、自分の道筋を示すだけでなく、その欠点や他の奏法などに対して、いろいろな見解をもっているでしょう。ですから、それを利用しない手はないと思うのです。つけ加えれば、こういうことを理解している先生につくことが必要条件です。

テキストやヴィデオは、反応してくれませんし、修正しながら教えることはできません。またまったくの独習は、かなりのロスが生じるとも思います。また、見かけ通りではない場合があります。見た形だけをまねしても、はたして「合理的な」筋肉を使い、「理にかなった」ことをしているかどうかは、よくわからないことが多いです。レッスンの時に、先生が生徒に体をさわらせることがよくあります。それは、楽器を演奏しているときに先生の使っている筋肉を「実感」させるためです。そんなことは、ヴェデオではできませんね。当たり前の話ですが、人は過去の遺産を学ぶことで時間を節約し、進歩することができました。それは、楽器を覚えることについても、全く同じだと思います。

現代のようにインターネットが普及すると、演奏技術や練習法の情報が溢れています。もちろん、多くの情報を得ることができることはよいことですが、その情報によって混乱を来してしまっては意味がありません。ですから、情報を十分に活用するためにも、基本的なところで情報をチェックできる場所が必要だと思います。(いろいろな楽器を習っている人たちのレッスン日誌があちこちにありますが、習っている側ではなくて、教えている側こそが読んだ方がよいのかもしれません。実際、とても興味深い話がたくさん出てきます。)

集団の中で上達することは可能か

「個人レッスンなんかしなくても、アンサンブルをしながらだって十分上達できるのではないか。」と思われる方もいらっしゃるかもわかりません。これについても、「かなり困難でしょう」といわざるをえません。

もちろん、アンサンブルの能力というものが楽器を演奏することと無関係に存在するわけではありません。しかし、一緒に音を出す、という作業は、単に一人で音を出す作業とは違った意味があります。「一人で練習しているときは弾けてたのに、オーケストラにきて弾いてみたら全く弾けない(; ;) なんで? 練習法がわるいのかしら。」なんていう質問を、非常によく受けます。それは、「当たり前」なんです。

他の人と一緒に演奏するためには、普段一人で音を出しているときと違った神経が盛んに働いています。「他の人の音を聞く」「他の人のテンポを感じる」「指揮者を見る」 「他の人の演奏している姿を見る」「呼吸を感じる」「自分の音と他の人の音を比較する」「自分のテンポとまわりのそれを比べる」「修正する」等々・・・意識していなくても、自然に五感に感じる部分は働いているのです。ということは・・・自分が演奏することに使われている神経は、一人で音を出すときよりはるかに少なくなってしまいます。

どんな楽器でも、正しく音程やリズムをとらえることには大変な神経が必要です。(これは、子どもの頃から楽器になじんでいる人でもいっしょです)他の人といっしょだと、どうしても自分の音を出す作業がおろそかになります。

また、自分の「身丈にあった」演奏ができない可能性がある、ということも問題です。まだ技術のない部分を「そろえるために」見よう見まねでやってみて、基本的な部分が壊れてしまう危険性すらあります。

オーケストラやアンサンブルをしながら上達する部分というのは、とても限られた部分です。または、「普段弾く時間がないから、せめてオーケストラの時だけは弾いておかないと・・・」ということもあるかもしれません。しかし、それ以外にいろいろな影響もあるでしょうし、個人的な技量 がその場で上がるということは、あまり期待しない方がいいでしょう。

私は、以前ならっていた先生に、「曲を弾くことや合奏をすることは、技術の消費。レッスンや個人練習は技術の蓄積」と言われたことがありました。もちろん、それだけで言えるほど単純ではありませんが、ある側面をあらわした言葉だと思います。ただ、ここまで述べてきたことは、あくまで「普通 の人」についてです。

中には、レッスンもいらない、個人練習もいらない、とにかく弾いていれば弾けるようになっていく、という人もいるにはいます。現に、私のまわりにもそのような恵まれた人がいます。何が違うのかよくわかりませんが、おそらく 「集中力」や「運動・反射」能力が他の人より圧倒的に優れているのだろうと思います。

◎ レイトスターターにとっての特殊な要素 ◎

レッスンを職業にしている先生は、少なくとも10人以上、場合によっては50人を越える生徒を抱えています。この生徒の多くは子ども、ないし子どもから始めた人たちです。

大人になってから楽器を始めることは、20年前にはごく一部の「変わり者」の行動でした。20うん年前私がいた大学オケでは、ヴァイオリンの「初心者」は、私の学年には15人中一人しかいませんでした。社会人になってから楽器を始めることはそれ以上にハードルが高く、始めたとしてもヴァイオリンなんて想像もつかない、という人がほとんどでした。

大人になってから楽器を始める人が急速に増えたのは、90年代に入ってからだろうと思います。バブルがはじけ、物質的な満足より自分が本当に楽しめるものを求めることが「あたりまえ」になってきたことも、その一因かもしれません。パソコン通信やインターネットの普及が、そうした「自分が満足できる楽しみを見つけたい」と思っている層にとって、強い追い風になったことも否定できないでしょう。

ということは、教える側にとっても「大人から始める人を教えること」については「レイトスターター」なんです。経験も知識もないと思った方が良いかもしれません。もちろん、こういう状況はもう5年もすれば劇的に変化するとは思いますが、現状ではまだまだ「どうやって大人を教えるのか」ということは手探りの状態なのです。

そのことは、ヴァイオリンのレイトスターターの多くが、その先生が子どもに使っている教材と同じものを与えられていることでもわかります。

今使われている教材の多くは、本来、「ひょっとしたら将来プロの演奏家になるかもしれない」子どもを念頭に置いて書かれたものです。ヴァイオリンの演奏に必要な技術を順にならべて、「これをすべて修得したらプロになれます」という意識で作られているのです。ある意味では「情け容赦ない」ものであり、またある部分は「大人にとって全く必要がない」こともありうるのです。もちろん、そんなことはレッスンを受ける側には判断しようがありません。教える側が勉強しなければならないことなのです。

ヴァイオリン奏法の教授法は、(もちろんヴァイオリンに限った話ではありませんが)多くの先生の体験やレッスンを受けた人たちの、いわば「サンプル」の上に成り立っています。大人になってから楽器(特にヴァイオリン)を始める人たちがどんなことを苦労するのか、どんなレッスンが効率的なのか、ということを語れるほどサンプルをもっている先生はあまりいないのが現状です。だから、先生のためにも、わからないこと、苦労する部分などははっきりと伝えて欲しいと思います。先生を鍛えることになりますから。

もう一つ。

レイトスターターのレッスンは、レッスンの時間も「訓練の場になっている」ことが必須です。特に「音感を鍛える」ことについては、レッスンの時間しかできないことがたくさんあるのです。僕も初めはこれを理解できていませんでした。だから練習不足だと、「今日はやること無いね。また来週やりましょう。」と言って追い返してしまったこともありました。しかしそれは、「子どもの頃から楽器に十分慣れ親しんできた大人に対しての対処」です。今、そのことはとても反省しています。基本的に、レッスンとは「レッスンとレッスンの間にどれだけ効率よく練習できるか」ということを模索する場です。練習はあくまで家でするものだ、という「伝統的なレッスン観」にしばられていたせいであるとも言えるでしょう。

真剣に上達したいと願っているレイトスターターは、こういったことを理解してレッスンに行くべきだ、と私は考えています。子どもと違って自分の要求を伝える能力があるわけですから、それを上手に利用してレッスンを有効な場にすべきでしょう。

◎ レッスンの形態について ◎

先生の考えていることを判断する材料の一つに、レッスンの形態があります。何を求めるかによって自分のスタイルにあったものを見つける必要があります。

レッスンにはいくつかの形態があります。

  • 1)個人レッスン。レッスン代は一回ずつ。時間は原則一時間かそれ以上。場合によって伸縮あり。
  • 2)個人レッスン。レッスン代は一回ずつ。時間は進度によって30分や一時間など。時間の延長はほとんど考えられない。
  • 3)個人レッスン。月謝制。30分ならいくら、一時間ならいくら、という決め方。
  • 4)いわゆる「音楽教室」などの個人レッスン。
  • 5)グループレッスン

グループレッスンと個人レッスンの差について考えてみます。

楽器のレッスンは本来一対一であるべきだと思います。それは、指導を受ける側の一人一人の差が大きいからです。同じ30分のレッスンでも、一人当たりの効果 は人数の自乗に反比例するといっても言い過ぎではないのではないかと思っています。技術的な指導もさることながら、最大の理由は、「音感を鍛える効果 が全く期待できない」ことにあります。

ではなぜこんなにグループレッスンが繁盛しているのでしょうか。はっきり言うと「教える側の経済的事情」だろうと思います。(こんなことを言ってはみもふたもありませんが・・・)「ヴァイオリンを上達するためにはグループレッスンの方が相応しい」と考えている先生は、恐らくグループレッスンを実際にやっていらっしゃる先生の中にも一人もいないでしょう。しかし、「繁盛する」というのは、受け手側にもメリットがあるようです。

いろいろな人の話や、HPの書き込みなどを拝見していると、「楽しい」というのがその大きなメリットのようです。つまり、ヴァイオリンの上達よりその場の楽しさを楽しみたい、という方には、グループレッスンの方が入りやすいのだろうと思います。また、一対一のレッスンでは息が詰まる、という感覚をお持ちの方もいらっしゃるようで、そんな場合には有効な方法なのかもしれません。しかし、ヴァイオリンの上達のためには決して誉められたスタイルではありません。

では、個人レッスンをなさっている先生ならどれでも同じなのでしょうか。

レッスン費用や時間配分だけでは、その先生の善し悪しはわかりません。しかし、いくつかのヒントはあります。

1) レッスンが、必ず先生自身で、1対1でおこなわれるか。

まず、第一点目です。(この話の前提として、「レッスンについて効率よく上達したい」「自分の表現がしたい」という要求があるものと考えて下さい。「なんとなく、グループで楽しみながらレッスンを続けたい」という可能性を否定するものでもありませんし、その場合は、これから書くことは少々的外れになると思います。)

私は、いわゆる「マニュアルを持った」音楽教室に通ったことはありません。しかし、自分自身の経験から言っても、先生ご自身が全てのレッスンをするとは限らないことがあります。いわゆる、「代稽古」ですね。私が以前いたところでは、高校生以上で比較的進度の高い生徒が、小さい生徒を代稽古する習慣がありました。私もよくやらされましたが、そのころは、全く不思議には思いませんでした。教える側にとっては、大変勉強になりますし、自分も教えることが好きだったのでしょう。勿論、レッスン代は先生のところに入りますが、自分としては、修行の一環だと思っていました。しかし、この年になって考えてみると、ものすごく申し訳ないことをしていた、と反省しています。教わる方にとっては、とんでもないことですよね。私が、その先生のところをやめることになったきっかけの一つに、このことがありました。確かに、進んでいるわけですから、教えることはたくさんあります。しかし、学習途上の、しかも教える経験のない生徒についた方はたまったものではないでしょう。

もちろん、先生がいる前でする代稽古は、この限りではありません。問題が生じたときに先生もいらっしゃるわけです。

先生が、「教える側」の生徒を鍛えるためにこのようなレッスンを組むことは時々あります。教える側の生徒にとって、これほどすばらしい体験はありません。

また、特に忙しい演奏家についた場合には、演奏旅行などで空いてしまう間レッスンを代行する人が必要である場合ももちろんあると思います。しかし、基本的には、自分の要求を知ってくれている先生が直接教えることが前提であるはずです。

また、ある教室では、「グレードが同じ先生なら代行しても不自然ではない」といったことをおっしゃるかたもいらっしゃいました。これも、とても不思議な話だと思います。

レッスンという作業は、あくまで一対一のものであるはずです。もちろん、アンサンブルの練習とか、人と一緒にやることで得ることもたくさんありますが、楽器を演奏すると言うことが、個人の作業の上に成り立つ以上、複数の生徒を同時に教えたり、意味なく先生が変わることは、よいことだとは思いません。(勿論、いろいろな先生につくメリットとは別の問題です。)

ピアノやエレクトーンをグループでレッスンしているところがあるそうですが、そこでなされることは、「一緒に演奏する」という楽しみを得ること以外は、「ヴィデオを見たり」「マニュアルを読んだり」する作業と決定的に異なるはずの個人レッスンを、堕落したものにしているとしか思えません。(くりかえしになりますが、そういうレッスンを要求している人を否定しているのではありません。ここで話題にしているのは、「大人になってから始めたけれども、できるだけ上達して楽しみたい」と考えている人たちに対してのレッスンの形態の話です。)

09/10/15付記)ここに書かれていることは今でも「正しい」と思いますが、私はここ数年、アシスタントの先生と一緒にレッスンをしています。ただし、このアシスタントの先生は、私の意図と練習法を学んだ上で、私が立てた方針の上で教えています。アシスタントを使うことにはいろいろな意味があり、利点もあることが最近は感じられるようになりました。それは「複数の見方を知る」ということにまとめられます。もちろん、方針がぶれてしまっては生徒が混乱してしまいますから、その点については十分に注意が必要です。

2) 時間に若干なりとも柔軟性があるか

時間が完全に固定されているものも考えものです。特に、一回30分やそこらの時間しかなく、それがかたまってしまっているのも、教える側からみると不思議です。生徒の進行状況や、必要なことによって、レッスンに時間がかかることもあるでしょう。それをフォローできないようでは、効果 がかなり減ってしまうのではないでしょうか。「こんどはちょっと時間を長くとりましょうね」という柔軟性があるかどうか、ということは、先生の側の姿勢を示すバロメーターになると思います。私の知り合いで、いわゆる「教室」で教えている先生がいますが、教室では規定の時間以上は教えられないので、不足したら、家まで来てもらって追加のレッスンをしている、と言っている人がいます。こういう姿勢が、教える側の「当然の」ことだと思っていましたが、現実にはそうでもないようです。

生徒によってかかる時間が違う、ということもあるはずです。同じことを何回かいっしょにやらないと覚えてくれないこともあるでしょう。特に大人であれば、一度説明しただけで、自分で工夫してこなしてくる人もいると思います。そういういろいろな生徒を、「一回何分」という区切った形でレッスンができるか、という問題が生じるはずです。

時間が足りないときには、追加でレッスンをしていただけますか、ということを先生に尋ねても、けっしてばちは当たらないと思います。

3)教材がいつ、誰に対しても同じだったりしないだろうか

レイトスターターの多くが、鈴木や篠崎の教則本を使っているようです。これらの教則本はとても良く書かれており、子どもがヴァイオリンを始める場合にとてもスムースに進むことが多いようです。しかし、大人に一律に教材を与えている先生はちょっと考え物かもしれません。

多くの場合、仕事や家庭を持っているレイトスターターは、練習する時間を定期的に確保することができません。また、同じ練習でも、子どもよりずっと早く理解し、修得できるものもあるのです。特に、子どもは「再現性」をつけることが大変ですが、大人は「頭で理解していれば」同じ作業を何回もしなくてすむことがあります。もちろん、体の構造上、子どもよりたくさんの練習をしなければならないこともあります。

そういった現実を無視して、子どもを想定した教材だけを一律に与えて指導している先生は、かなり問題があると思って間違いありません。結果 として上手になったとしても、時間や労力のロスが大きすぎるからです。

◎ 先生の選び方 ◎

楽器の先生を見つけることは、東京や大阪などの都会では、現在ではさほど難しいことではないかもしれません。町には音楽教室の看板があふれ、電話帳を見ると、結構な数のそういった教室の案内が載っています。それでは、さあ楽器を始めよう、レッスンについてみよう、と思ったときに、はたしてどうやって先生をきめたらよいのでしょうか。一番の近道、贅沢な方法と言えば、演奏が気に入った人のところへ押し掛けて「弟子にしてください」とお願いすることでしょう。しかし多くの場合、演奏家がレッスンを見てくれるためには、いろいろな条件・制約があります。楽器を始めたばかりの人、特に大人になってから楽器を始める人をみない先生も少なくありません。

それぞれの先生には、考え方・経験などがあり、それはまったく異なるものです。また演奏だけでなく「教えること」という要素もあります。ですから、どんな先生を選ぶか、によって、レッスンの効率や得られるものが全く違ってきてしまいます。簡単に言ってしまえば、「個人の個体差をよく理解しそれに応じた教え方ができ」「何を目標にしているか・何ができるかということを生徒と分かち合い理解し合う」「よい耳を持った」先生が理想だと思います。ただ、そういう先生に巡り会うことはとても「幸運」なことです。また、ある先生がいったいどういう人なのか、ということを知ることも、結構たいへんなことです。しかし、せっかくのレッスンを無駄 にしないためにも、なるべく自分に合ったよい先生をみつけたいものです。

先生に希望を伝えてみよう。大人としてレッスンをしてもらえるかどうかを判断することが必要。

まず大切なことは、レッスンを始める前に先生に希望をはっきり伝えることです。それには、いくつかの意味があります。受け手を大人として扱ってくれるだろうかということを判断することが必要だ、と思うからです。

多くの楽器の教師は、子どもの頃から楽器をやって来た人です。また、生徒の多くは、子どもや学生です。そう行った人達を教えることと大人を教えるとには、いろいろな違いがあります。

まず、身体機能の問題です。

子どもの頃から楽器を始めると、体が楽器を演奏するのに適したように変化しながら成長します。大人になって初めて楽器を持つ人には、そういったアドヴァンテージがありません。子どもから始めた人は、そうではない人とかなり異なる筋肉や体形をしています。繰り返しの運動をすることによって、形ができてくるのでしょう。ですから、正しい形(といっても、正しい形は決して一つではありません)で訓練を続けていれば、まったく何もやらないよりも有利な体になります。大人になってから楽器を始める場合、この有利さがないだけでなく、「体が出来てしまっている」ために、体が固い、邪魔な筋肉などがついている、といったこともあります。ですから、それを理解して訓練しなければ、効率が悪いだけではなく、体をいためたりすることもあります。

具体的に書いてしまうと、楽器の持ち方、弓の持ち方すらも違う可能性がある(必要性がある)と思います。

まず、楽器の持ち方です。問題になるのは、左手をどこまで体の内側に入れられるか、ということです。関節や筋肉の柔軟性によっても異なります。(私が教えた例では、バストが邪魔で左手を入れられない、という女性もいらっしゃいました。)それによって、楽器を構える位 置がもちろん違ってくるはずです。左手の柔軟性を判断しないで楽器を構えることを覚えてしまうと、いつまでたっても手が指板の方を向かない場合もあります。(これで苦しんでいる人、意外と多いようです。)

次に弓です。特に問題になるのは、手首の柔軟性と腕の長さの比でしょうか。これを理解しないと、かなり辛いことになります。特に体の小さい女性が弾く場合、手首の柔軟性を考えないで弓を持たせると、いつまでたっても弓先が使えなかったり、弓を弦の方に「押し込んで」しまったりします。

そして、目に見えない筋肉です。これが本当にやっかいです。

先生は「自然に筋肉が使えるようになる」経験をしていますから、「練習すれば当然そうなるはずだ」と思っています。しかし、大人になって筋肉が出来上がっていると、本来ヴァイオリンで使うべき筋肉以外を使って、同じような効果 を得られる動きをすることができてしまうことがあります。見た目に判断が付きにくいので、これで躓いた場合、先生も生徒もかなり苦労します。特に「ボウイング筋」が未発達の場合、弓を早く動かすスピードと初速に、子どもから始めた人との間に著しい差ができてしまいます。私が教えている生徒さんでも、とても器用で練習もきちんとなさるのに、「弓が早く動かなかった」人がいます。長い間他の先生についていたのですが、その原因がわからなかったようです。

教える側がこういった「個体差」を認識できるかどうかは、レッスンを受ける側の進度や「限界」にてきめんに影響します。「大人として扱えるか」ということは、体の機能にとっても大変大きなポイントなのです。

子どもの場合は、先生のたどった道筋をたどれば、ある程度の所までは進めると思います。ですが、体が出来てしまった大人を教えるには、先生の方が自分と違うからだを持った生徒に対して適切なアドヴァイスができるかどうか、ということが、重要な要素となるでしょう。 また、体の状態が子どもと違うことをどのように理解しているか、ということも重要です。「どうせ大人になって体ができてからやっても上手にはならないから、適当に」などと考えてしまっていては、その先生がいくら立派な技術や理論を持っていても役に立ちません。

次に、頭と体の問題です。

大人になってから楽器を始める人にとっての大きな武器は、「頭を使うことを知っている」ことです。フォームや練習法を教わるだけではなく、その目的を良く理解することが出来れば、自分で考えて矯正したり練習方法を工夫したりすることが出来るわけです。ですから、それを理解している先生のレッスンでなければ、やはり効率の悪いものになるでしょう。説明できるものは説明して、よく納得してもらった上でレッスンを続けなければ、価値が半減します。

生徒に対して説明できる言葉を持っているかどうか、ということは、とても重要な点です。何も考えないでただ楽器を演奏してきた先生では、その体験を言葉にして伝えることは出来ないでしょう。ですが、御自分も苦労され、いろいろな奏法を学び、その長短、適正を理解している先生なら、その人に合った説明をしてくれるはずです。特に、楽器を初めて始める場合は、何も判らないわけですから、先生の言葉が絶対的になりがちです。ですから、あまりふさわしくない教え方をされていても気がつかない場合が多いと思います。お話をしてみて、希望を伝え、先生がご自分を説明する言葉をもっているか、ということを判断することが必ずプラスになると思います。

そして、何を目標にしているかということを理解してもらえるか、という問題もあります。

子どもの場合、ごく一部の人を除いて始めは「どうなるかわからない」(プロになるのか、なれるのか、アマチュアとしてたのしめればよいのか、それなりのものになるのか)状態で始めるでしょう。これには両面 があります。「わからない」ということは、プロになれる可能性もあるわけで、先生の方もその子どもが最ものびることを想定し期待して教えます。ですから、初めはその先生が最大限に教えられることを教えようとするのです。しかし、子どもが成長するにつれ、他のことに興味が移ったり練習をきちんとせずに伸びなくなってくると、先生は教え方の進度をゆるめたり、少しづつ軌道修正することもあるかもしれません。子どもの場合は、このような変化があっても「あたりまえ」のことで、先生も対応に慣れていらっしゃる場合が多いと思います。

これにたいして大人の場合はどうでしょうか。ほとんどの先生が「大人から始めたのだから、どうせアマチュア。しかも、弾ける曲には限界があるし、耳も育っていないから、ちゃんと弾けるようにはなりっこない。」と考えているような気がします。すると、「それなりの」教え方になってしまう危険性があります。

確かに、子どもの頃から始めないとできないこともたくさんあるでしょう。しかし、「頭を使って効率よく練習する」ことでカバーできることもたくさんあるはずです。その可能性を切って捨ててしまっては、せっかく楽器をはじめることの楽しさが半減してしまうような気がします。

一方で、できることとできないこと、困難なこと、が区別が付かなければなりません。残念ながら、ごくごく例外的な人を除いて、大人になってから初めて楽器をさわった人には、やはり限界があると思います。もちろん個人差は大きいですが、ちゃんと練習すればだれでもイザイのソナタやブラームスのコンチェルトが弾けるようになる、とは思いません。そのことを理解し、なおかつできるところまで行けるような目標をたてることができるか、ということは、理屈を理解することができる大人にとっては重要な要素だと思います。

もちろん、要求としては「そんなに厳しい練習はしたくない。それなりに楽しむことができればよいので、限界が早く来ても良いから楽しみながら練習をしたい。」という場合もあるでしょう。それでも、そのことを理解し、適切な教材を用いてその人の要求を満たしながらレッスンを進めることは、先生の方には、ある程度の理解力がないとうまくいかないでしょう。

そして、「耳」の問題です。

楽器を教えることを、「奏法を教えること」と理解されている先生についてしまうと、大人になってから始めた場合、大きな誤解の上にレッスンが重ねられる危険性があります。それは、「耳があるかないか」ということです。 子どもの場合、練習を重ねることによって、意識しないうちに耳が訓練されることが多いと思います。勿論、楽器の演奏技術だけではなく、聴音などを併用することも多いでしょう。それで、しだいに「それなりの」音感がついてくることが普通 です。しかし、大人の場合は、頭で理解できるために、音感がなくても「あたかも音感があるかのような」錯覚を先生がすることがあります。

私が出会ったレイトスターターの中で、「全く音の高低がわからないのに、練習を重ねてそれなりの音程で楽器を弾くことができる」人がいました。歌を歌ってみると、音の高低が全くわからない。二つの音を弾いてみて、「どっちが高い?」ときいてみると、判断がつかないのです。楽器を初めて、もう1年以上になろうか、としているのに、そういう状態でした。それでも、楽譜を読めてそこそこ指は回ります。音程がいまいち悪いのは、技術的な問題だと先生は考えていたのでしょう。そういう指摘がなされたことはない、と言っていました。その人のレッスンは、まず、音の高低を理解することから始まりました。初めはとても苦労していましたが、程なくして、簡単な旋律なら歌えるようになりました。

これは極端なケースだとは思うのですが、音感をきたえることをしないできた人は多いはずです。その場合、音感を持つことをまず考えないと、いつまでたってもちゃんとした音程の演奏はできないでしょう。楽器を教えるということは、単に演奏技術を教えることではないわけで、「耳を鍛える」ことを重視できるかどうか、ということは、結構大きな問題だと思います。(〈 講座04 〉音感について1参照)

もし、「私は音感がないのですが」と感じられていて、それを先生に伝えても何も反応がないようだと、後になって結構しんどい思いをすることになるかもしれません。

最後に、発表会についても触れておきます。

レイトスターターが最初に「人前で演奏する」ことは、多くの場合、習っている先生の発表会でしょう。その中で、多くの場合、子どもたちと混ざって演奏を披露することになります。そうでなければ、少し弾けるようになってから参加したオケやアンサンブルの演奏会が、始めての舞台になることもあるでしょう。

この「発表会」が必要か否か、というのがテーマです。

ヴァイオリンに限らず、音楽の再現は、ある種の自己表現です。それをどう自分で捉えるかということは、実はヴァイオリンの表現力に直接関わってくる問題なのです。よく、「子どもは発表会をやるたびに上手になる」という言い方をします。それには二つの大きな意味があります。

一つは、発表会で披露するためにその時点での最善を尽くして曲を完成させるということです。単に練習するだけでなく、聴いてもらうためにどうしたらよいか、ということを考え、それに沿った練習をすることは、音楽をやる上でとても重要なことなのです。

二つ目は、人目に触れるという体験そのものによってもたらされるものがあるということです。

これ以外にも、他の人との直接的な比較にもなりますし、その以外にも意味があることはあるでしょう。そしてこういったことは、子どもたちだけに当てはまることでは決してありません。ですから、できれば発表会をきちんとやってくださる先生が望ましいと思います。

参考資料:column「音楽教師の資質」もご覧下さい。

ヴァイオリンを始めたいという相談を受けたとき、よくあるのがこのことです。「楽譜が全く読めないのですができるでしょうか」という方から、「固定ドでしか歌えないのですがヴァイオリンを弾けますか?」などといったやや専門的なものまでいろいろなパターンがあります。ここでは、楽譜、楽語の問題を、一番始めから比較的高度なところまで、一気に書いてしまおうと思っています。(もちろん、具体的な楽譜のシステムや楽語の話は書きません。そのようなものが別に存在していることを前提に書いています。)

◎ 楽譜が読めるということと頭の中で音が鳴ること ◎

「楽譜を読む」ということは、「書かれている音の名前と高さがわかる」ことが、多くの場合スタートです。「楽譜が読めないのですが・・・」とおっしゃる方々は、多くの場合この意味で「楽譜を読む」という言葉を使われています。この点については、ヴァイオリンを始めると同時に楽譜を読むことを練習すれば、十分に対応できるようになります。ヴァイオリンの先生は、勿論、楽譜の読み方も教えて下さいます。

音符そのものは、音の高さと長さしか表しませんので、その種類も少なく、記憶するのにそれほどの困難を感じられることはないでしょう。それよりもその音を実際のヴァイオリンの指の位置と一致させること、実際に頭の中で(もちろん、声に出しても構いませんが)歌えることが重要で、かつ苦労することです。

楽譜が読めないレイトスターターにヴァイオリンを教える場合、実際に指を押さえさせて「ここに書かれている時はここを押さえる」という教え方をされている先生が多いようです。確かにこれが一番早く「それなりの場所を押さえることができる」ようになる方法ですし、教える方も簡単です。(始めたばかりの方の楽器を見ると、線が引いてあったり丸印がついていたりすることがあります。それが「大体の場所のガイド」になるからです。)しかし、これだけではなく、楽譜を見ながら音の高低を頭の中で鳴らせるような練習も平行してやるべきだと考えています。

この「楽譜に書いているある音を声で再現する」ことを、「ソルフェージュ」と言います。(厳密に言うと、旋律を歌詞なしで音名などで歌う歌唱法を指します。)頭の中で音が鳴り、自分の音楽を組み立てることは、全ての音楽家(プロ・アマ問わず)に必要な能力です。(実際にそれができているかを判定するためには声に出してもらうより仕方がありません。ですから、音大の受験には必ずソルフェージュの試験が課せられます。)ピアノを小さい頃から習っている多くの生徒さんは、平行してこの「ソルフェージュ」の訓練を受けます。そのことが、ピアノの演奏を「単なるキー叩き」ではなく音楽にしていくための一つのアイテムになるのです。

楽譜が読めない、ということは、当然こういった作業が未経験なわけですから、ヴァイオリンを演奏するための技術と共に、「頭で音を鳴らす訓練」をする必要があるのです。やってみると、「案外簡単だなあ」と思う人と、とても苦労する人に分かれるようです。前者は、単に楽譜に書かれている記号としての音符と自分の頭の中で鳴る音の高低の差が、情報として一致していないだけです。楽譜は読めないけれどカラオケをやらせれば誰より上手、という方は、世の中にたくさんいらっしゃるのです。こういう人は、音符という情報の処理の仕方を覚えるだけでいいわけで、すぐに「楽譜が読める」ようになります。

問題は後者の場合です。この方々にヴァイオリンを教える場合、ソルフェージュのような訓練が不可欠になります。家で練習する場合は、ピアノのような楽器で少しずつ慣れていく以外に方法がありませんから、レッスンの時にきちんとしたトレーニングをする必要があります。「〈講座04〉音感について1」で述べたことと深く関わることなのですが、正しく音感を身につけることとは、実は頭の中で正しい旋律が歌えるかどうか、ということでもあるのです。ですから、先生のヴァイオリンに合わせて頭で歌ってみる、実際に声を出してみる、といった作業を取り入れることが、大きな意味を持つのです。

頭の中で音が鳴ることの重要性は、どんなに強調してもしすぎることはありません。楽器が上達すればするほど、その重要性は身にしみるはずです。ですから、初めからそのことを念頭に置いた練習をすることが大切だと思います。楽譜が読めるようになったら、通 勤電車の中でもどこでも、暇さえあれば楽譜をみて頭の中で歌う訓練をしてみます。すると、次第に音楽が自然になり、体が音楽になじんでくるのです。

◎ 楽譜に書かれていることは、音の高さと長さだけではない ◎

音の高さと長さが格好が付かないとお話になりませんから、初めはこのことばかりに頭が行ってしまいます。これは仕方がないことです。しかし、実際に演奏する楽譜に書かれている情報は、これだけではありません。この点について、一つだけ書いておきます。

実際の楽譜には、いろいろな言葉や記号が書かれています。この意味を全部理解しないと、楽譜が正しく読めたことにはなりません。というと「大変だなぁ・・・」という印象を持たれるかもしれませんが、実際にはそんなに大変な作業にはならないでしょう。楽譜に書かれていることの量 も質も、ヴァイオリンの上達と共に増えて行くものだからです。ですから、新しい記号・言葉が出てくるたびに、そこで使われている意味と共に覚えていくことが秘訣です。ついでに言うと、実際にその記号が表すもの(とできればその記号が無い状態、ないし反対の状態)を先生に演奏してもらうことをお勧めします。言葉の知識だけでなく、実際に音になることで、楽譜に書かれている言葉や記号が生き生きと頭の中で理解されるはずです。生徒をよく理解した先生なら、押しつけにならないように、そういった例示をしてくださるでしょう。

これに対して、英語の単語を丸暗記するような楽語の暗記は、あまり感心したものではありません。楽語が表す意味を日本語に変換するときに無理がある上、単なる言葉の変換という記憶は、頭の引き出しから引っ張り出すのに苦労するからです。(だから、受験生は年号を語呂合わせで覚えたりするんですね。あれは、「記憶するため」にするのではなく「記憶を引っ張り出すため」にするものなのです。)

ここまでお読みになって、「頭の中で音がなる重要性」を少し実感されたのではないでしょうか。楽譜を読むこと、楽語を理解することは、とどのつまり「頭でいかに正しい音がなるか」ということで測られるものなのです。

◎ 楽譜を読むときの注意 ◎

楽譜を読む経験値が少ないと、つい音符だけに目が行ってしまいます。そうならないために、初めからいろいろな情報を把握する習慣を付けておくと楽です。読譜力の差は、特に、アンサンブルをするようになったとき、初見力の差となってあらわれます。

実際に練習する時には、まず「音符以外のもの」から見るようにします。ト音記号、何調か、指定されている速さはどれほどか、他に表現する記号や文字はないか、といったことを必ず確認するのです。子どものレッスンでしばしば取り入れられている方法に、最初にリズムだけで歌わせる(叩かせる)というやり方があります。音符を弾く前に、楽譜に書かれている拍子を頭に入れさせようというものです。このやり方は、大人のレイトスターターにも通 用します。頭の中でまず拍子を鳴らしてから弾き始める習慣を付けると、そのことが自然になります。実はそうすることによって、実際に演奏する演奏自体のリズムも改善されたりすることもあるのです。やってみて損のないことですから、是非試してみてください。

◎ 移動ドか固定ドか? ◎

言葉を知らない方のために、簡単な説明をします。

「固定ド」とは、音の絶対的な高さに名前を付けて音高を示す呼び方です。例えば、通 常のト音記号で書かれた五線の一番下の線上の音は、その楽譜が何調で書かれていても、「ミ、E、エー」です。これに対して「移動ド」は、書かれている音が、「その調性の中で第何音か」ということによって名前を付ける呼び方です。今の例では、ハ長調の場合は「ミ」、ホ長調の場合は「ド」、ヘ長調の場合は「シ」になるわけです。

自分が移動ドなのか固定ドなのかということは、「認識と知識の利用が多くの場合食い違っている」ために、よく混乱を来します。楽譜を読むとき、いきなり「移動ド」で読むことはとても大変です。「固定ド」なら、いつでもそこに書かれている音は同じ名前ですから、とてもわかりやすい。ところが、絶対音感を持たない普通 の人間が実際に旋律を頭で描くとき利用している知識と記憶は「移動ド」である場合が多いのです。

これは簡単に証明できます。試しにある歌を歌い始めてください。そしてしばらく他の音楽を聴きます。もう一度先程の歌を歌います。できれば二度とも録音しておくと結果 が明らかになります。二度の歌は、同じ音高で歌い始められていますか?ほんの少し、場合によってはかなり大きく違っているはずです。でも、旋律としては正しく歌われていますよね?つまり、頭の中では「音の相互関係を覚えている」訳で、移動ドの感覚を利用しているのです。(これが、常に同じ音程で歌い始めることができる場合、絶対音感か疑似絶対音感が身に付いていることになります。「〈講座03〉音感について1」参照)

固定ドの方が音符を認識しやすいのに、人間の音楽的感性は移動ドの上になりたっているのですから、どちらを使ったらよいのだろうか、と悩むのも仕方ないかもしれません。結論は簡単です。「簡単な方を利用してください」

すなわち、楽譜を音名で読むときに移動ドで読むという苦労をすることはありません。もちろん、ヴァイオリンを弾くときもです。ただし音名を離れて旋律を歌うときは、頭の中に自然に思える進行で歌うことが重要なのです。これが、「音程の良いヴァイオリン」を作ります。

◎ 楽譜に書かれていないことを読む ◎

この項の最後に、高度な楽譜の読み方までちらっと進んでしまいましょう。まだ楽器を始めて間もない方にも、必ず役に立つ部分があるはずです。それは、「楽譜に書かれていないことを読みとる」ということです。三つのことを挙げて、知っていただきたいと思います。

1)楽譜が書かれている背景を知ること

古いもの(バッハ、モーツァルトやバロックなど)を演奏するときに、特に必要になることです。

楽譜の書き方は、時代と共に変化してきました。例えば<>のような松葉(クレッシェンド、デクレッシェンド)は、バッハやモーツァルトの時代には使われていません。(もし書かれている譜面 があれば、それは後世の校注者が書いたものです。)そして、書かれた当時の意味が忘れ去られてしまったものもあります。そういったことを、楽譜に書かれている音楽の「前提として」知っておくことが、演奏に対する楽しみを質的にも激変させることがあります。バッハやモーツァルト、ベートーヴェンなどの作曲家の「原典版」が何度も書き直されて出版されてきたことを見れば、そのことも伺い知ることができるでしょう。

楽譜に書かれていることをどう表現するか、というのは、再現者(演奏者)と作曲家との関係を語る上での永遠のテーマだろうと思います。「作曲家の意図をそのまま表現するのが唯一の再現者の使命である」、という最も極端な考え方と、「作曲家というのはあくまで一つの材料を示したに過ぎないから、再現者はそれをどのように使っても良い。場合によっては音を替えても良い。」というのが、正反対の考え方です。多くの演奏家は、この中間のどこに位 置するかによって、自分のスタンスを決めているのです。

あくまで一つの例として、私の考え方を述べます。それが、「楽譜の読み方」と関係してくるからです。

私は、作曲家の意図は、最大限尊重すべきであると考えています。「尊重する」というのは、「意図を知り演奏する」ということであり、「意図通 りに演奏する」ということは若干違います。モーツァルトの時代の楽譜は、彼の生きた時代の楽器を使い彼の時代の調弦で、その時代の演奏会場で演奏されたものです。ですから、現代の楽器とホールでモーツァルトの時代「そのままの」演奏をすることが良いことかどうかというと、疑問に思うからです。(もちろん、そういうことを意図した演奏集団もあります。)私たちは、モダンの楽器を使って現代に合った演奏をすべきだと思うのです。ただしそのために作曲家の意図を曲げてしまってはいけないということが重要なポイントです。ですから、楽譜から作曲者の意図を読み込む作業はとても重要です。スラー一つとっても、単に「音をつなげる」だけではない意味があることがあります。ある時期までのモーツァルトの楽譜では、スラーが単に「強弱」を表すこともあります。それを普通 の「スラー」にしてしまっては、すでにモーツァルトの作品ではなくなってしまうからです。

また、音楽によってはその「形式」や「意味」を知っておくことが必要です。例えば、同じ三拍子の曲でも、メヌエットとワルツ、マズルカでは、全く違うリズム感が必要です。そういったことは残念ながら楽譜には書かれていません。単に「ワルツ」とか「メヌエット」とか書かれているだけなのです。別 のものを利用して知る必要があります。もちろん、レッスンの場で解決することも可能です。先生は生徒に与える曲の形式・意味を必ずわかっていますから、説明を求めることは簡単です。場合によっては、そのような「背景」を、楽器で演奏してもらって理解を深めることもできるでしょう。

このような「時代背景」や「楽曲的な常識」を知り始めると、案外面白くなってあれこれと調べるようになるかもしれません。そんなことも、音楽をやる上での原動力になるでしょう。

2)楽譜には書かれていない「音楽的常識」に「慣れる」

いわゆる「原典に忠実な」ベーレンライター版のモーツァルトの楽譜を見てみると、強さを指示する記号が極端に少ないことに気がつきます。同じ曲を古い版のペータース版と比べてみると、その差は歴然とします。特に「クレッシェンド」「デクレッシェンド」は、ベーレンライター版には全くといってよいほど書かれていません。では、モーツァルトは「クレッシェンド・デクレッシェンド」をしない演奏を望んだのでしょうか?そうではありません。

音・音楽の強弱は、音の高さ、旋律の進行、和声の組み合わせと進行など、さまざまな要素によって自然に変わります。これが「音楽的な常識」と言われるものです。古い作曲家は、音楽的常識を「あたりまえのもの」として、楽譜には書かなかったのです。ですから、楽譜に強弱の変化が書かれていないからと言って、常に同じ強さで演奏されるとは限りません。

これは速さにも言えることです。曲の終わりの終わり方などは、時代によってスタイルがある場合があります。もちろん、こういうことは楽譜には書かれていません。当然のように重くなる、間があく場合すらあります。(「インテンポとメトロノーム」参照)そういったことも、もちろん楽譜には書かれていません。

では、そういった「常識」を身につけるにはどうしたらよいのでしょうか。

子どもから音楽に慣れ親しんでいる人たちは、こういった「常識」を自然に身につけて育つことがあります。ですから、あまり考えなくても、自然に「音楽的な」演奏ができるようになる人がたくさんいるのです。もちろん、子どもから始めたからといって、必ずしもこういった「常識」を持っているとは限りません。他の楽器を演奏してきてヴァイオリンという楽器が初めてだ、という方は、この話がすぐに理解されることだと思います。問題は、「ヴァイオリンという楽器が初めて持つ楽器である」人たちです。

この「常識」を身につけてもらうための方法は、大きく分けると二通りの考え方があるようです。一つは、「子どもと同じように、音楽に触れ楽しむことによって体に取り込む」というやり方です。このような考え方をしている先生は、レイトスターターにも子どもと同じように、「易しく弾ける曲」をたくさん与え、それを「音楽的に」完成させることによって、こういった「常識」を体で覚えてもらおうとします。もう一つは、基本的な「常識が発生する理由」を理解してもらって、その常識に従った音楽を「イメージする」「演奏する」ことで、必要なアイテムを身につけてもらおう、という考え方です。

どちらがよいか、というのは、一人一人違うだろうと思います。実際に練習する時間がどれだけあるかによっても違いますので、レッスンを受ける人が音楽的常識を身につけやすい方法を選択すれば良いでしょう。もちろん、両者は対立するものではなく、「体で覚えた方がよいもの、理論から入った方が理解しやすいもの」を区別 されている、ちょうどよいバランスをお持ちの先生もいらっしゃると思います。いずれにしても、今まで書いてきたような「楽譜には書かれていない常識」を身につけることも、レッスンでの重要な作業の一つです。

3)休符の意味を知る

「休符」とは、読んで字のごとく、音を出す作業をお休みする時間です。弾くことに神経を使っていると、この「お休み」で本当に「休んで」しまいがちです。しかし、「休符」にはいろいろな意味があります。

物理的には、「響きが残っている」ことがあります。この場合、響きを演奏者・聴衆が楽しむことができるかどうか、ということと、その響きが休符の次につながるようにする、という二つのことを考える必要があります。前者の場合はともかく、後者の場合、次に音を出すタイミングが、書かれている休符の物理的な長さと一致しない場合もあります。こういったことを理解するのはとても大変ですが、音楽の流れを切らないためには、どうしても必要になる場合もあるのです。また、本当に「静寂」を求める場合もあります。

物理的なことだけではなく、「休符で音楽の流れを切らない」ことがとても重要になる場合があります。ヴァイオリンの演奏技術との兼ね合いで言うと、「休符の時にも音楽の進行に従って体が反応している」ことが当たり前に起きてきます。そういったことも、楽譜に書かれていないことを読みとる一つの例です。

◎ この項の最後に ◎

楽譜は、音楽の詰まった魔法の箱のようなものだと思います。我々のようなヴェテランのアマチュアや、プロの演奏家でさえ、何度も同じ楽譜を見ると新たな発見があることがあります。楽譜に親しむことはとても貴重なことで、これをお読みのみなさんも、是非その「楽しみ」を知っていただきたいと思います。

いよいよ楽器の購入です。

すでにレッスンにつく先生が決まっている場合は、先生に相談するのが一番無難な方法です。これからお付き合いするわけですから、先生の意向も伺っておくことは大切だと思います。しかし、一つだけ残念な現実を書いておかなければなりません。それは、一部の先生が、楽器商と「癒着」しているということです。

私が初めて後輩を楽器屋に連れて行った後、何人かのお弟子さんを持ちました。二十歳過ぎの頃です。その楽器商は、私が自分の先生に任されてお弟子さんを持っているということを知ると、態度が変わりました。購入するお弟子さんに隠れて、「領収書は定価で切りますか?」と尋ねてきたのです。その店では量産品は「定価」とされている額の10%引きで買えることになっていることを知っていた私は、一瞬何を言われているのかわかりませんでした。すぐに気がついて、申し出をお断りしたのですが、その楽器商は「馬鹿だなぁ」という顔で私を見るばかりでした。

昔は、こういうことが「あたりまえ」に行われていたようです。本来の売値がはっきりしない「オールド」などは、楽器商にとっても、また先生にとっても「おいしい商売」になっていました。もちろん、こんなことをしているのは一部の先生だと信じたいのですが、都内でも有名な楽器商の多くがこういったことに手を染めていたのはよく知られています。先生の側からリベートを要求することも多かったと言います。

「芸大事件」以来、少し風向きは変わったのでしょうか。ネットなどで情報が簡単に流通 することもあり、最近はこういうことが少なくなった、という人もいます。しかし残念ながら、まだ完全になくなってはいないようです。

ほとんどの弦楽器専門店は、量産品や消耗品を「定価」では売りません。10%引きでは少ない、20%引きが標準? 渋谷の老舗などは、ふらっと行っても30%引いて売ってくれます。競争が激しいので、そうでないと「お客さんがつかない」んですね。もし先生に「量産品」を勧められてそれが定価だったら、先生選びに失敗した可能性もあります。もちろん、可能性でしかありませんが。

◎ サイレントヴァイオリンは練習用に使えるか? ◎

数年前から、サイレントヴァイオリンがはやりだしました。音を出せない住環境にはぴったりのようなこの楽器、果たしてヴァイオリンを練習するためには優れているものなんでしょうか?

答から書いてしまうと、「サイレントヴァイオリンは、アコースティックとは別のものだと思ってください」というところでしょうか。何度か試奏してみましたが、ヴァイオリン学習者が使うものとしては、致命的な欠点がいくつかあります。

まず、響きの問題です。普通のヴァイオリンなら、金属製のミュートでもつけない限り、音程による共鳴が感じられます。サイレントヴァイオリンにはこれが感じられない。つまり、きちんとした音程の練習にならない、ということです。箱がなるのではないのですから、当然のことなのですが。そして、右手にとっても練習にならないばかりか、変な癖がついていても気がつかないでしょう。

どうしても音が出せないので仕方ない、という方は、サイレントヴァイオリンでの練習は、左手の運動性能を上げるためのフィジカルトレーニングしかできない、ということを十分理解した上で使うしかないような気がします。

◎ 楽器と弓の値段 ◎

まず、一般論としての楽器の値段について知っておいてください。(もちろん、上の方を見る必要は今はないでしょうが・・・)

超一流の演奏家が使う楽器、例えばストラディヴァリやグァルネリなどは、「価格」はありません。必要な人が払って買うのですから、1億であろうと2億であろうとあり得るわけですね。その次のクラスも、値段的には「別世界」です。ガダニーニ(イタリアの名器)など、コンチェルトを十分演奏できる、数千万で取り引きされる楽器群です。これが「ぴん」の世界です。

オケプレーヤーやアンサンブルで演奏活動をしているプロ達の持っている楽器は、100万の単位 から1000万を越えるくらいまでが普通でしょうか。腕自慢のアマチュアでも、このクラスの楽器ならば持っている人がたくさんいます。その中でも、500万を越える楽器は数も少なくなり、かなり「良い」ものが多いです。一方で100万ほどの楽器でも、気に入る要素を持っているものに出会えることが少なくありません。

ほとんどのベテランアマチュアが持っている楽器は、鈴木などの量産品を除くと、30万から100万くらいの間でしょうか。そして、それより安い量産品が続きます。一番安いものは、通販などで売られている中国製のもので、弓やケースまで合わせて一万円なんていうものもあるようです。

楽器の値段を決める要素は色々あります。作者が誰か、いつ頃のものか、鑑定書があるか、しっかりしたところの鑑定書か、ラヴェルが本物か、傷がないか、といった、いわば「物理的な」事情によって「相場」が形成され、その「相場」の範囲で、音質、パワーなどの「実際に出る音」によって、その値段が決まるわけです。これが、量産品でないヴァイオリンの値段を決める要素です。量産品は、作り方、材質などによって、一律な値段が付いています。

実際には、音の与える満足度と値段は一致するものではありませんが、現在は(まともな楽器屋なら)逆転現象が起きる可能性は「好みの問題を除けば」少ないような気がします。値段をとてもよく表している例として、あるアマチュアの楽器の話をします。

この方のヴァイオリンは、とても「可愛い」音がします。イタリア製の楽器ですが、それほど古くはありません。クレモナなどの北部ではなく、南部の楽器だと言うことで、クレモナ製と比べるとお買い得感があります。さて、この人がこの楽器のほぼ三倍の値段のものを手に入れました。この楽器は重厚な音がして、パワーがあります。しばらくはそれで完全に満足していました。しかししばらくすると、以前の「可愛い音」が忘れられません。どうせなら、「可愛い音がして十分なパワーがある楽器」が欲しいと思いました。すると楽器屋さんは、「値段がさらに三倍になります」と言いました。初めの楽器が一ヶ月分の給料だとすると次が三ヶ月分。そして両者の長所を同時に持っている楽器は、なんと9ヶ月分になってしまうのです!

美点をたくさん兼ね備えている楽器は、やはり高くなってしまうものです。逆に考えると、自分が本当に「何が好きか」ということに絞って選べば、平均値でバランスの良いものより満足度の大きい楽器に巡り会える可能性がある、ということも言えるのです。

弓に関しても、同様な「ランク付け」が可能です。フランスやイギリスのオールドの中には、1000万を越える額で取り引きされるものもあります。プロが持つものは、やはり100万単位 のものが主流です。アマチュアの多くは、10万~数十万クラスの弓を持っているようです。一番安い量産品だと、一万円台からあるようです。弓の値段を決める要素も、ヴァイオリンとほぼ同じです。

高いものの話を聞くと、ため息がでてしまいますね。

◎ 予算を決める ~ 実際にどのくらいの金額になるのか ◎

楽器を始めるときに、まず自分の懐具合と相談して「これなら」という予算を決められる方が多いのではないでしょうか。もちろん、無い袖は振れないわけですが、ある程度楽器の値段というものに目算があって予算を決められるのもよい方法だと思います。そのあたりについて書いてみようと思います。

通販もの、中国製の格安ものは?

まず、一番安いクラスです。私は「楽器本体・弓・ケース・松ヤニ・肩当て付きで現地価格約一万円」という中国製の楽器を目にしたのが、一番安い事例です。これは例外としても、通 販などで売られているものは、セットで2~3万というものが多いようです。これらの楽器は「ある特殊な用途を除いて、決してお勧めできません。」これらの楽器は、根本的な欠陥を持っている場合が多いからです。

一昔前出回ったような、「開けてみたらペグが回らない」などというとんでもないものはないようですが、楽器として使用に耐えない欠陥が露呈するケースは多いようです。例えば材料によって、湿気が多い時期に全くペグが回らなくなったりする可能性があります。こういった場合、楽器屋にくり返し調整に出すはめになって、買った値段より高くついたりしかねません。それ以前に、このタイプの楽器は、まともな楽器屋だと「調整できません」といって断られる場合の方が多いでしょう。そうなると全く使い物にならないわけです。

ここまでひどくなくても、駒が楽器に合わせて削られていないのは「当然」のようです。ヴァイオリンは弦の振動が駒を経由して楽器本体に伝わり、本体の「箱」が鳴ることで音が出ます。駒を単に楽器に立てただけでは、この振動の伝達がうまくいきません。ということは、鳴らないわけです。

他にもいろいろありますが、少なくともレッスンについてヴァイオリンを練習しようと考えていらっしゃるのでしたら、この手の楽器はやめた方が良いでしょう。

量産品でも同じじゃない!

次のクラス、鈴木などの量産品についてです。カタログを見ると、5万円台からあります。最近は通 信販売をしている楽器店も多く、購入するにはとても便利です。弓についても、1万円台からありますから、ケースや付属品と組み合わせて・・・大体7万円ということになります。さて、これで最低限の予算のめどがつきました。じゃあインターネットで購入しましょう・・・ちょっと待ってください!

地方に住んでいたりして楽器屋さんに出かけることができない、という事情がない限り、楽器は必ずお店に行って自分で確かめてから買うようにしましょう。もちろん、初めて楽器を買うのに、どうやって確かめて良いかもわかりません。(ですから、信頼できる先生なら、先生に相談するのが楽だし安心なのです。)まず、身のまわりで、そこそこ上手な、信頼できる人を捜してみてください。その方と一緒に出かけましょう。もしそういう人がいなければ、楽器屋さんに弾いてもらうことを考える必要があるでしょう。

と書いたのには、幾つかの意味があります。第一に、量産楽器でも均一ではないということです。これには、製品の個体差という、どのようなものにでも発生する結果 があると同時に、実は「人為的な差」もあるのです。製品の個体差については仕方ないでしょう。しかし、楽器店がそれをどう扱っているか、ということによって、買う側には大きな差が出てしまいます。同じ値段を出すのでしたら、少しでも良いものを買った方がいいのは当然ですね。

量産品の多くは、「卸」と言われる仲介業者を経て、小売店に入荷します。バラした状態で入荷することも多いです。それを小売店が組み立てて、ユーザーに販売します。さて、ここに問題が生じます。

まず、組み立てるときにちゃんとしたことができない店があります。もちろん、弦楽器の専門店ではそういうことは決してありませんが、地方都市だと人口が数十万単位 の処でも、そういういいかげんなことをして楽器を売っているところがあります。私が実際に見た例だと、駒が反対につけられていたのがありました。(駒に表裏があるなんて始めたばかりの人は気がつきませんよね。)もちろん、こんなのは論外ですが、組み立てた後試奏してきちんと検品する楽器屋としないところがある、というところで問題が生じます。

まともな弦楽器店は、試奏してみて問題のあるものは突っ返してしまいます。しかしそんなことをしない楽器店も残念ながら多いのです。するとどうなるか・・・突っ返された楽器は、そういうことをしない「生産者に優しい」楽器店に並ぶわけです。結果 は・・・明らかですね。

それともう一点。自分で楽器を選ぶと、楽器に対して愛情がわく、というとても大切な要素があります。これから長い間お付き合いする事になる楽器です。愛情がないと、あなたも楽器も可哀想です。ですから、同じランクの楽器でも複数を試奏できるところが望ましいと思います。楽器屋をはしごしても構わないでしょう。自分が弾けないし安物だから、といって卑屈になることはありません。そういうユーザーにもきちんと対応できない楽器屋はこちらから願い下げだわ、と言うくらいに開き直っても良いと思います。もちろん、初めは自分で弾くことはできませんから、誰かに実際に弾いてもらって「聴いて」判断することになるでしょう。自分の耳で楽器を選ぶ、という大切なステップを、ご自分の楽器を手にするときには必ず通過して欲しいのです。そのときに、適切なアドヴァイスをもらえる人と一緒であれば、満足する楽器選びができるでしょう。

価格帯とどれを選ぶかの考え方

ここが、ある意味ではこのテーマの一番重要なところです。

量産楽器の一番安いものでセットを組むと、7万円ほどになることがわかりました。どうせ始めるところだし一番安いのでいいや、とお考えの方、ちょっと待ってください。

弦楽器は原則として「新品は高くて中古は安い」という普通の商品の感覚が当てはまらないものです。そりゃそうですよね、世の中で一番高い楽器は、今から250年も前に作られたものです。では古くなれば高くなるのか、というと、そうも単純ではありません。バブルの時代以前ならともかく、ここしばらくは、楽器の値段が高騰することはなさそうです。一つの目安は、「楽器屋さんは売ることを考えて楽器を仕入れる」という当然のことです。誰かが使っていた楽器は、どんなに素晴らしい楽器でもそのままでは売りません。きちんとメンテナンスをして、クリーニングをして、ようやく売ることができるのです。ですから、当然その費用がかかることになります。楽器屋さんが楽器を下取り、ないし買い取ってくれる場合、この費用を考えた値段が「適正な」ものになります。

例えば5万円の量産品の新品を買って2年後に良い楽器に乗り換えたくなった場合、買ったヴァイオリンはいくらで売れるのでしょうか。これは、もろに「中古品扱い」になります。せいぜい2万円というところでしょうか。もちろん、弦楽器の専門店では1万円でも引き取ってくれないところがほとんど全部でしょう。メンテをしてクリーニングをして、という手間を考えれば、とてもではありませんが商売にならないからです。ネットで売るか、後から始めた友人に売るか・・・どっちにしろ、「捨て値」になることは間違いありません。

これが、2~30万(これはあくまで目安です。)を越える「新品ではない」楽器になると、条件が一変します。まともな弦楽器店なら、最低限「楽器の値段からメンテナンス代を引いた値段」で下取りしてくれるものなのです。弓についても同じようなことが言えます。

同じ量産品でも、最近はいろいろな国から楽器を輸入している卸・楽器屋さんが増えました。さすがに5万円台で見つけるのは難しいですが、10万円前後からは、かなりいろいろな種類の楽器が選べるようです。ネットで検索してどんなものがあるかを知ることもいいでしょう。私も随分見つけました。(一昔前は、ドイツ製や旧東欧製が主流でした。なかでもチェコ製の楽器は、値段の割によい音がするものが多かったような気がします。)東京や大阪などの大都会にお住まいでしたら、そういった楽器の差を聴かれることは、とてもよい勉強になると思います。そして、楽器屋さんによって在庫にしている量 産品にも違いがあります。何軒もの楽器屋さんを訪ねてみると、もちろんご自分の処で扱っているものを自賛します。(そりゃそうですよね。それが良いと判断したからラインナップに加えたわけですから。)その差を見てお気に入りの楽器屋さんも見つかってしまうかもしれません。そんな楽しみ方もあります。

少々値の張る値段の楽器のことを書いたのには、大きな理由があります。一つには、なんと言っても音の問題です。イタリア製の楽器に対する極端な高評価を除けば、やはり楽器の音は値段に比例する部分が大きく、じっくり弾こうと思うのでしたら、少しでも良いものを持つ方が長続きする可能性があります。特に何年か経って(何ヶ月、という人もいますが)他の人たちと一緒に演奏する機会を得ることができるようになると、「もっと良い楽器が欲しい」という強烈な欲求に襲われる人はとても多いです。本気でヴァイオリンを練習するつもりなら、他のことは少し倹約してでも、ちょっと贅沢をしてみることをお勧めします。「楽器を替えて楽器に教わるようになった」と言う人がたくさんいます。それほど、楽器の状態によって演奏の効果 、練習の実質的な内容も変化する可能性があるのです。

かといって、そんなに「無謀な」予算を立てる必要はありません。私が今まで見てきた限りでは、10万円台の外国製に、比較的満足度の高いものがあるような気がします。もちろん、楽器本体に20万以上、場合によっては30万も出せる、という方なら、新品でない楽器から選ぶことも可能です。そして、7,80万前後から、また別 の世界が拡がります。そういうものは、将来目指すものとしてとっておきましょう。(一昔前のニフティのフォーラムでは、レイトスターターがこのランクの楽器に乗り換えることがはやりました。事例も刺激も多いので、それこそ「インスタントラーメンで我慢しても」買った人までいます。このあたりの値段を超えると、「出会ってしまったら忘れられない」恋人状態になってしまう人が多くなるように感じました。余談ですが・・・)

さて、弓です。弓もヴァイオリンと同様、一本一本が全く違います。量産品に限って言えば、その差はヴァイオリンよりはるかに大きいと言えます。ということは・・・選ぶのが難しいのです。

弓の選択には、もう一つの問題があります。「良い弓になればなるほど、誰が弾いても楽に音が出る」ということなんです。言葉は悪いですが、「弘法筆を選ばずの名人ほど良い弓を持ち、道具に助けてもらいたいひよこ達ほど悪い道具に苦労する」というのが実情なのです。ですから、少しでも慎重に、自分のためになる弓を選びましょう。

仮に15万ほどの楽器を買おうと思うのでしたら、弓にはどんなに少なくとも半分くらいの値段はかける価値があります。楽器が安くなれば安いほど、弓は同額でも、場合によっては弓の方が高くても決して後悔はしません。これは、楽器も弓も取り替えた後、楽器はどうしようもありませんが、弓はセカンドボウとしての利用価値もある、という将来を見こした戦略でもあります。私の経験だと、やはり10万前後の価格帯に、かなり性能の良い弓があるような気がします。ヴァイオリンと同様、30万前後を境目に、劇的な質的違いがあると思います。(一昔前に出たカーボン弓の値段を決めるためにメーカーの人が来日したとき、値段の決め手になったのは30万ほどの弓との評価の差でした。実際の価格は30万を少し切るところに設定されました。それ以上高いと極端に売れなくなるという判断だったのだろうと思います。)

弓は大変に微妙なものです。重さが1グラムも変わると、手に感じる重みは激変します。同じ重量 でも、重く感じるもの、軽く感じるものなどさまざまです。ですから、できれば直接レッスンを受ける先生、それがだめなら信頼できるベテランにアドヴァイスをしてもらうことが欠かせないと思うのです。

と言うわけで、経済状況を無視して考えると、トータルで30万ほどが、長い目で見て後悔しない楽器選びの予算の基本だと思います。今はそこまで予算がないのであれば、何をどのように削るか、ということを考えてみましょう。今出せるのは20万だ、というのでしたら、私なら8万円の楽器と12万円の弓を勧めるかもしれません。それなら、将来楽器を替えようと思うとき、弓はうまくいけばそのままで使えます。そういういろいろな条件を全て勘案して、予算を考えてみるのも一つの方法です。

(もっと高い楽器に買い換えるとき、というテーマは、しばらくしてから書くつもりです。)

◎ 楽器と弓の相性 ◎

よく、「この弓はこの楽器と相性が悪い」とか、「二人は愛し合う夫婦のように相性がいい」なんて言うことがあります。実際、楽器と弓の相性に神経を使っている人は多いようです。果 たして物理現象を超えた相性は存在するのか?

いろいろと実験をしてみるとわかりますが、楽器と弓に「誰が弾いても同じ結果が起きる個体差による相性の善し悪しはない」というのが正解です。(ただし、楽器と弓との間の「格」が違うと、話は違ってきます。)奏者を替えて何台ものヴァイオリンと何本もの弓を引き比べると、絶対的に良い・悪いの差が出てくることや物理的に判別 できる場合(弾く前から明らかである・説明できる場合)を除けば、結果はバラバラです。ではなぜ、楽器と弓に相性があるかのように思われているのでしょうか。

一つは、楽器や弓がそれぞれの特徴を持っていることがあります。ごくおおまかに分類すると、イタリアの楽器は明るい音、フランスの楽器は柔らかい音、ドイツの楽器は重厚な音、なんていう表現をされることもあります。もちろん、各地方でも制作者によっての違いもあります。弓についても同じような差があります。イギリスのものは強く、フランスのものは柔軟で芯がしっかりしている、スイスやドイツのものは機能的、なんていう解説を目にしたこともあります。そしてどんなに安い楽器でも、それぞれ特徴やスタイルがあります。この組み合わせによる相性がまずあります。そして、もっと大きいのは「その人のボウイングと弓の相性」なのです。ですから、「これくらいの価格帯で弓を買いたいのですが」と楽器屋に予約の電話を入れると、よい楽器屋さんなら幾つかのタイプの弓を見せてくれます。その場合の「タイプの差」とは、バランス、重さ、強さなどの微妙な違いです。そのどれが合うかは、実際に弾いてみないとわからないのです。

初めて楽器を弾く場合、こういった検証を自分ですることはできませんが、ある程度の値段を出して「音を気に入って」楽器を購入すると、その音を目指した練習ができます。今書いたように、ボウイングと弓との相性はとても重要ですから、気に入った楽器と弓の組み合わせで練習することは、自分の演奏のイメージを作るために大変役に立つのです。ボウイングのためにもなります。こういったことも、楽器選び、弓選びのための判断材料としていただければ、と思います。

さて、楽器も買った、レッスンの予約もした・・・あとは楽器を持って弾いてみるだけです。レッスンは来週なんですが・・・せっかく買ったヴァイオリンが「触って、触って」と声をかけているようです。ええい、ちょっとならいいや、せっかくだから弾く真似でもしてみよう・・・

もちろん、初めての愛しの楽器を「触るな」とは言いません。自分の楽器に愛情を持つことは、ひょっとしたら音楽を愛することと同様に重要なことかもしれません。うっとり眺めるのも、少しこわごわと触ってみるのも、とても大切なプロセスだと思います。しかし・・・

まず、現実的な話を一つだけ。

ヴァイオリンや弓は木でできています。表面には「ニス」が塗ってあり、傷がついたりすることをそれなりに防いでくれます。しかし、この「ニス」は、剥がれたり傷ついたりすると結構やっかいなしろものなのです。ですから、楽器を持つときは、「できるだけ本体には手を触れない」ようにしてください。ケースから楽器を出すときには、ネックを持つようにしましょう。また、手が触れてしまったら、しまうときに付いてしまった手の脂や汗をきれいにふき取るように心がけてください。

さて、本題です。楽器を実際に持つ前に、次のことをやってみてください。

1)ボウイング筋を見つける

右手にある程度の重さのあるものを持ち、持ったまま腕を下ろしておきます。(500グラムくらいで十分です。また、弓のように長いものでなくてもかまいません。)右手は弓を持つ方ですが、(左利き用の楽器を買われた方は、もちろん左手です。)弓の重量 は50グラムほどですから、これ以上重いものである必要はありません。ただし、これ以上軽いと、初めは筋肉で重さを感じないことがありますから、このくらいが丁度良いと思います。次に、持ったまま、手をゆっくりと真横に上げていきます。最終的に肩よりやや高いくらいまで上げてみてください。さてこの時、どこに力が入り、どこの筋肉を使っているか、感じましたか?(全く感じない場合、少し重量 を増やしてみてください。)注意することは、腕に決して力を入れないこと。手で持ち上げる、というより、肩より後ろで引っ張り上げる感じにしてください。

多くの場合、上げるに連れて「手首→肘→肩」に重みを感じたはずです。(仮に、背中に重みを感じたり、背中で腕をつり上げている感覚を持てるのでしたら、それで十分。ここから先は読まなくても結構です。)そこで終わって、背中(具体的には肩胛骨の表付近)に何も感じないのでしたら、今度は水平に保ったまま、腕を後ろにゆっくりと引きます。すると、腕の内側にも張りを感じることでしょう。同時に、背中にも筋肉の張りを感じませんか? もし感じればここまでで終わり。感じなければ、今度は水平に保った腕を前の方にゆっくりと回してください。この時、背中の右側の表皮が引っ張られたような感じがするはずです。それと同時に、肩胛骨の裏側が少し動いたような感覚がありませんか?

何度かやっている間に、この「背中の筋肉」を感じることができるようになると思います。(個人差がありますので、これだけではわからない人がいるかもしれません。そういった場合、重さを変えたり、少し大きく手を動かしたりするとわかるようになる可能性があります。)実は、これが「ボウイング筋」なのです(解剖学的に言うと、肩甲骨と上腕の付け根を結びつけている「棘上筋」「棘下筋」「肩甲下筋」「小円筋」の4つの筋肉をさします。これらの筋肉を総称して「Rotator Cuff」と呼びます)。スムースなボウイングをするためには、このボウイング筋が上手に働くことが必要です。弓の運動を練習しているときには、このボウイング筋が常に鍛えられているようにすることが理想です。

補足)Rotator Cuffの重要性を説いたのは、大リーグのノーマン・ライアンという大投手です。野球のピッチャーが豪速球を投げることができるのは、Rotator Cuffがしっかりしていて腕が肩甲骨から運動できるからなのです。

テニスや球技(サッカーはだめですよ)などをやっていると、この筋肉を非常に酷使します。そもそも、腕を使う時のこの筋肉の重要性を発見したのは(じゃあ、ボウイング筋を鍛えるためにはテニスをすればいいか、というと、ちょっと話は違います。ボウイングと使い方が違うので、筋肉が違った鍛えられ方をしてしまう可能性があるそうです。)そういった運動競技をやっていた人は、筋肉を使っている感覚を見つけるのは早いかもしれません。

さて、ボウイング筋が意識できたら、この項の目的は終わりです。あとは練習する時に、この筋肉を使っていることが意識できればしめたもの。筋肉をトレーニングするだけでなく、「脱力」の出来具合も全く違ってきます。

2)脱力について

楽器に限らず、人間の動きにとってとても重要な要素が「脱力」です。これが苦手な人、結構多いようですね。包丁を使うときに肩に力が入っている人、いませんか?ビール瓶の栓を抜く、御菓子の袋を開ける、といった日常の動作でも、上手な人と苦手な人がいます。これは、「脱力」の得手不得手が原因である場合があります。

ヴァイオリンを弾くことは、日常で使っている「脱力」の集大成のような部分があります。右手も左手も、初めのうちは「力を抜いて」とか「脱力して」とか、さんざんに言われるかもしれません。それほど、余計な力が入ることは、ヴァイオリンの演奏にとって大きな障害になるのです。

簡単な脱力の確認法を書いてみます。

文庫本くらいの厚さのものを親指と人差し指でつまんでください。右手も左手もやってみましょう。つまんだら指先に次第に力を入れていきます。その時に、手首、肘が固くなる、肩が上がる、といった症状が出てしまった場合、失敗です。指先だけに力が入るように意識します。

もちろん、ヴァイオリンを弾くときにこんなに力を入れることはありません。しかし、これが完全にできると、かなり楽に脱力を意識できるようになります。ヴァイオリンを弾くことに引きつけて説明すると、右手は「弓を実際に持っている指以外は脱力したい」、左手は「指板を押さえるための指の力以外は脱力した」のです。つまり、指だけが手から分離しているように動かせると、ヴァイオリンの上達が早いわけですね。

さて、どうしても他の処に力が入ってしまう場合、力のいれ加減をいろいろ工夫して、指先にできるだけ意識を持っていってください。文庫本をつまんだまま、腕が自由に動くようになればしめたもの。誰か他の人がいれば、手伝ってもらうことでもっと効率が上がります。もう一人の人の手を同じようにつまみながら、手を振り回してもらうのです。そのときに「マリオネットのように」手が動けば大成功。

ヴァイオリンの演奏で「脱力する」ことは、このように単純ではありません。左手にしても右手にしても、単に「つまむ」という作業よりはるかに高度なことをこなす必要があるからです。この作業は、もし脱力が苦手だということがわかった場合、日常生活から脱力を意識して生活することをお勧めできる、というためのものでもあります。ヴァイオリンを練習する時間は所詮短いもの。それより、生活全体をヴァイオリンを弾くためにスタンバイさせてはいかがですか?