レッスンと日々の練習とは、進度により、また習得すべき内容によって、関係性が異なります。このことを理解しているかどうかで、練習の効率と獲得できるモノがかなり違ってくるのです。レッスンと日々の練習との関係は、概ね以下のように分類できます。
1)レッスンで新しい技術を習得し、それを日々の練習で定着させること
レッスンの場で「できた」新しいことを、練習で再現し、いつでも使える自分のアイテムとして格納する作業がこれにあたります。ヴァイオリンを始めたばかり、ないし、先生を替わった直後などは、ほとんどがこの作業になるでしょう。例えば、右手の基本の運動を考えてみます。レッスンの場では、私が必ず右手を持って運動を作った記憶があるはずです。全く新しい運動は、まずその運動ができるようにならないと、練習をすることができません。レッスンの場では、最初は補助をしながら、次第に補助を取って、「一回は出来た」状態を必ず作っています。こういったものは、レッスンの後にその運動を再現して定着させることが練習の目的です。練習後のレッスンは、運動が正しく再現できているか、定着しているか、という確認作業をすることになります。
2)レッスンで新しい内容を理解し、それを日々の練習で習得すること
指の自然変形などがこれにあたります。最初のレッスンの場では、生徒は自分一人では「できない」状態で終わるでしょう。私が補助をして、指の運動を理解してもらいますが、補助を取るととたんに動かなくなったことを思い出して欲してください。こういったタイプのものは、レッスンの場で習得するのではなく、レッスン後の練習で次第に自分のモノにしていくのです。そのために、弓にテープを貼り付けたりした人も多いはず。補助具を使う練習を指示されるもののなかには、このように「理解できても、最初は一人では実現出来ない」タイプのものが多いのです。練習後のレッスンは、理解が間違っていないか、正しい運動ができているか(できかけているか)ということを確認し、到達度を測るものとなります。
3)レッスンで方向性を確認し、練習で錬度を上げるもの
速度を上げる練習、柔軟性を身に付けるトレーニングや音感を鍛えることなどがこれに当たります。人間の運動には、頭で理解できてもすぐにはできないものが多く、こうした運動は、「練習を積むとこのようになる」という方向性をレッスンで示し、それを道しるべにトレーニングを繰り返すことが日々の練習になります。練習後のレッスンでは、方向が違っていないか、余計な要素が加わっていないかなどをチェックして、錬度を測ることになります。
4)汎用性のある思考法を理解し、応用すること
ボウイングやフィンガリングに対する考え方や楽曲解釈の基礎などがこれにあたります。ボウイングの選択は、フレーズや音の形、運動のしやすさ、他のパートとの兼ね合いなどさまざまな要因によって左右されます。こうした思考法は汎用性があり、理解することによって自分の思考法として取り込めることができるはずです。レッスンの場では、天下り的にボウイングやフィンガリングを与え、それに従って練習させる指導者が多いですが、私はある程度のレヴェルになったら自分で考える領域を増やすように努めています。教える側にとっても教わる側にも手間のかかる方法ですが、自分で考えられるようになることがレッスンでの最大の目的であると理解してください。
5)レッスンで新しい考え方を示し、それに従って理解を進めること
楽譜を読むこと、奏法の選択や音楽的な解釈を理解することなどがこれにあたります。例えば奏法の選択は、楽譜に書かれていることを、時代背景や作曲者、他の楽器とのバランスなどさまざまな要素に基づいて行われますが、レッスンの場では、奏法の選択をするための説明がなされるはずです。与えられた思考法と知識に基づいて同じような選択ができるようにするために、日々の練習が積み重ねられなくてはならなりません。そこで登場した考え方は、その場限りのものではなく、他の曲にも応用が利くものにしなくてはなりません。最初は、レッスンと同じように考えて他の部分を理解するところから始め、指導者の思考法を理解することが大切なのです。
6)レッスンで新しい考え方を示し、それを発展させること
体の使い方にしても楽曲の解釈にしても、最終的には一人一人の個体差や考え方の差に帰着します。提示された運動や思考法を自分に合ったものにアレンジしていく作業が、最終的には必要になるのです。自分にとって最適な体の使い方や楽曲の演奏を見つけるためには、基本を理解した上で、レッスンで与えられたものを発展させ、自分が納得できるものにしなくてはいけません。
日々の練習は、以上のような「レッスンとの関係」を知り、練習の持つ意味を十分に理解して行われるべきなのです。
● レッスンの意味
レッスンを受けることの意味については、拙著「今から始めて上手くなる、楽器とオーケストラ入門」(61ページ以下)に比較的詳しく書きましたが、少々補筆しておきます。レッスンでは、新しいモノ(知識、奏法など)を指導者から得ること、練習法を組み立てることや、批評者としての指導者の存在に意味があることは書いた通りです。それに加えて、二つの点を強調しておきます。
第一に、レッスンとは指導者の思考方法を学ぶ場所である、ということ。演奏方法、練習方法や批判手段として先生が指導者足りえるためには、生徒が持っていない思考方法を提示できることが必要です。同じ材料を与えられて同じことが考えられるのであれば、他者は必要ないからです。わかっていることを指摘されるだけであれば、レッスンの意味はありません。
他者の思考回路を学ぶということは、先達の知恵を学ぶことでもあります(先達の知恵を学ぶこともやや誤解されていることがあるので、正しく理解して欲しい)。先達の知恵とは、先人が到達した結論だけでなく、先人が歴史の批判に晒されて作り上げた思考法そのものでもあります。結論だけでよい場合もあれば、思考法自体を学ぶことが必要(その方が有利)であることもあります。そのことを、簡単な数学で理解してみましょう。
(問)1から100までの自然数を足すといくつになるか
この問題を幼少のパスカル少年がたちどころに解いてしまった逸話は有名ですが、その考え方は次のようなものになります。
1 + 2 + 3 + 4 + ・・・ + 97 + 98 + 99 + 100
+ )100 + 99 + 98 + 97 + ・・・ + 4 + 3 + 2 + 1
101 + 101 + 101 + 101 + ・・・ + 101 + 101 + 101 + 101
= 101 × 100 = 10100
上記の計算では、1から100までを2回足していることになるので、
10100 ÷ 2 = 5050 ・・・・答
この話は、恐らく小学校の算数の時間に習ったはずです。何とかなる人も多いでしょう。ところが、次の問題になると「頭真っ白」という人が続出するのです。
(問)初項-3、公差7の等差数列の第20項から第30項までの和を求めよ
高校のテストでこの問題を解かされたとき、ほとんどの人が次の公式を覚えて数字を放り込んだはずです。
等差数列の一般項 An = A0 + (n - 1)d
等差数列の和 Sn = n(A0 + An)/ 2
この公式を覚えるために、かなりの労力を割いた人も少なくないと思います。パスカル君の解法も、この公式も「先達の知恵」であることには変わりないのですが、高校で公式を覚えた人のほとんどは、その知恵を利用できていません。こんな公式を覚えずに、パスカル君の解法の考え方を理解した人は、等差数列など「ちゃらい」ものだったはずです。
-3 + 4 + 11 + ・・・ + 193 + 200
+)200 + 193 + 186 + ・・・ + 4 +(-3)
197 + 197 + 197 + ・・・ + 197 + 197
= 197 × 30 = 5910 従って、初項から第30項までの和は、2955。
-3 + 4 + 11 + ・・・ + 116 + 123
+)123 + 116 + 109 + ・・・ + 4 +(-3)
120 + 120 + 120 + ・・・ + 120 + 120
= 120 × 19 = 2280 従って、初項から第19項までの和は、1140。
ゆえに、第20項から第30項までの和は、2955 - 1140 = 1815
公式などどこにも顔を出していませんが、やっていることはパスカル君と全く同じです。知識として必要な難しいことはほとんどありません。発想法を理解するということはこのようなことなのです。言い方を変えれば公式を導き出すことができる思考法を理解することです。
強いて言えば、「等差数列」「公差」などの言葉は単語として覚える必要はあります。しかしこれとて、単語カードで暗記するような方法でなく、単語の意味を捉えていればそれほど困難なことではないのです。
レッスンの場で指導者が言っていることを理解するということも、まさにこのような「思考法を理解する」ことでなくてはいけません。
例えば、雑音が気になったとします。レッスンではまず、その雑音がどのような種類のものか(擦過音なのか、子音の連続なのか、弦の振動ムラなのかなど)を判別することを指摘されるはずです。次に、どのタイプの子音が何を原因として起こるのかを説明し、その原因がどこにあるかを確認し、最後に、どうすればその雑音を取り去ることができるかを説明。大切なことは、このような順序で原因を分析して、それに合った対処法を考えるという思考過程を学び、実際にそれに沿って考えることです。そのために必要なアイテムは、練習を重ねていくうちに身に付けていきましょう。「そうか、それでこんな雑音がするんだ、先生ってよく知っているなぁ、今日もレッスンが役に立った」ではダメなのです。
もう一点、追加しておきます。それは、自分で工夫したことを自ら判断できるようになることを目指して欲しい、ということです。「自分で工夫したことを常に自分で判断しなさい」ということではありません。自分で工夫したことを自ら判断することがいかに難しいかを知り、それを目標にレッスンを受けてほしい、ということです。
余計なことですが、言葉の理解は難しいものです。上記の一文も、私がある生徒にした発言を誤解されたことで付け加えたものです。こんな例をあげておきます。
「健全な肉体に健全な精神が宿る」という言い回しを覚えている人も多いかと思います。この文を「肉体を鍛えれば精神も鍛えられる」と理解して、「体を鍛えることが心も鍛える」などと勘違いしている体育会系指導者が多いんです。この文章は本来、「健全な肉体に健全な精神を宿らしめよ」という祈りを誤訳したものです。本来は、「肉体ばかりを鍛えて強い体ができても、その強い体にしっかりした精神力を身に付けなければ意味がない」ということで、つまり肉体を鍛えても容易には精神が鍛えられないことを述べているのです。破廉恥行為を繰り返す体育会系お馬鹿が多いことをみれば、文章の意味もわかるでしょう…。女の子の尻ばかり追い回すスポーツお馬鹿になってはいけないよ、という意味。おそらく日本的精神論者の思い込みからきた誤訳なのだと思います。
理解を深めるために、こんな例を挙げておきます。「その音がわかりません(正確な音の高さが取れない、ということ)」と言う人が少なくないですが、これは二つの誤解の可能性があります。一つは(いつも言っていることだが)、音程の絶対値を覚えることはできない、ということ。もうひとつ、ここで強調したいことは、自分が絶対値を判断していると感じていても、実は頭の中で他のデータと照合した相対的な判断をしているのだということでです。
この誤解は、練習をしているときにいつでも起こり得ます。自分で工夫したことを自ら判断することは難しい、という意味は、人間の判断の大部分が相対的なものである以上、自分で物差しを作って判断すると正しい判定ができない可能性が強いということです。このことを理解できれば、レッスンの意味がよくわかるはずなのです。