柏木真樹 音楽スタジオ

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いじめの問題が世の中を騒がせている。先生が主導していじめを加えて生徒を自殺に追い込んでしまった中学校の事件の論評を見ていると、「言語道断」「こんなひどい先生は少数派」「他の多くの先生は一生懸命にやっている」という「評論家」「コメンテーター」の話をよく聞く。果たして、本当だろうか。イジメは、生徒が死なないと発覚しないことがほとんどである。しかし、いじめられた側、特に、力を持った権力者にいじめられたものは、ほとんどの場合、忍従を強いられるのである。表面化しないだけであって、実は、「ありふれたこと」なのではないかと感じている。

こんなことを思うのは、私のところに「助けを求めて」やってくる生徒さんたちが、目に見えないイジメを受けていることが多いからだ。目に見えないイジメは、いじめている先生が、ほとんどの場合無自覚であるだけに、より始末が悪い。もちろん、今の私のところにくる「生徒」は、ヴァイオリンを習ってきたわけであって、くだんの、先生に殺されてしまった生徒と同列に論じることはできない。しかし、昔、塾や家庭教師で教えていた頃から、こうした無自覚な先生は、恐ろしくたくさん存在したことを感じていた。「教師の資質」というところでは、違った視点で教える側の問題を書いたが、今日は、この背景にあるものを考えてみたい。

最近出会った私の生徒のケースは、このようなものである。

 

ケース1)発表会で失敗した生徒に対して「恥をかかされた」と怒った先生

何の偶然か、こういう経験を、立て続けに3人の生徒さんから聞いた。三人の先生の表現は、若干異なる。その言は、

  • 「恥をかかされた」
  • 「ちゃんと練習しないからこんな恥ずかしいことになるのよ」
  • 「普段の態度が出るのよ。ちゃんと言ったことをやらないから、こんなことになるの」

という具合である。一人目は論外。二人目は、ちゃんと練習しろ、という意見を述べている点で、一人目よりややましか。三人目は考えようだ。

しかし、いずれにしても、発表会で失敗して一番落ち込んでいる生徒に対して、「お前が悪い」と追い討ちをかけていることには変わりがない。一人目は、発表会が自分の成果をアピールする場だとしか思っていない、大勘違い教師であることはおわかりいただけるだろう。二人目と三人目は、自分に責任がないことを生徒に納得させようと言う、なさけない「無意識」が見え見えである。

 

ケース2)質問をした生徒に「百年早い」と宣うた、とっても偉い先生

生徒から聞いたのは最近だが、その生徒がヴァイオリンを始めて2年ほどたってからのこと。言われたことがどうしてもできないので、練習に工夫を加えてみた。レッスンで、そのことを先生に告げて、「こうしたら良いかと思ったんですが」と言ったことに対しての、先生の言葉が「いわれたことをやっていればいいの。工夫をするなんて百年早い」というものだという。これ以降、この生徒が先生に何も言えなくなったことは当然だろう。

 

ケース3)体を痛めた生徒に、「なんで体なんか痛めたのよ!」と追い討ちをかける先生

これも、3パターンくらい聞いた。発表会の前にたくさん練習をして、やや無理をしてしまって肩を痛めた生徒が「なんでこんな時に体を痛めるわけ? 緊張感が足りないからだわ」と言われたそうである。そうか、体を痛めるプロ奏者は、緊張感なく弾いているから体を痛めるのか・・・

もう一例は、「練習が足りないから痛めるのよ」と言い放った先生。なんでも、痛めたところは、練習をして耐えられるようになるべきなのだそうだ。これは、イジメというより、単なる無知か。

無駄な力が抜けなくて、手首を痛めてしまった例。「だから言ってるでしょ、力を抜きなさいって。言う通りにしないからそうなるのよ」と言われて、落ち込んでしまった生徒。先生のおっしゃることはごもっともです。だから、「どうやって力を抜いたら良いのか」教えてほしいんですけど・・

まだまだあるのだが、これらの事例が、私には、先生(権力者)による「いじめ」と密接に関係があるように思えてならない。第一に、これらの先生たちには、「教え手とは、教わる生徒が成長する手助けをする存在である」という、根本的な認識に欠けている。そして、生徒が結果的に失敗してしまうことが、自分に責任があるのではないかと考える、基本的な想像力が欠如しているのである。

ヴァイオリンの練習をしていて体を痛めてしまう人たちの多くは、弾き方の無理(体の使い方の誤り)が原因である。毎週のようにレッスンに通っている生徒が体を痛めたら、先生は、無理をして弾き続けていた生徒の体の使い方の問題点を発見できなかった自分を恥じるべきではないかと思う。何のためのレッスンなのか? 生徒が気がつかないことを見つけられるからこそ、「先生」と名乗れるのではないか? それを、緊張感がないだの、まじめに練習しないだの、生徒の側に問題があるようにすり替えて、恬として恥じない。そうした教え手が、あまりにも多すぎる。結果として、生徒は自分を責め、落ち込んで行くのだ。生徒がまじめであればあるほど、また、ヴァイオリンを弾くことがその生徒にとって重要であればあるほど、生徒の落ち込みはひどくなるだろう。専門家になろうと思っているのであれば、下手をすれば自傷行為に走っても不思議はない。考えたくはないが、こうした生徒が、仮に自殺したとしたら、「体を痛めたために悩んで」ということにされてしまうだろう。しかし、これがいじめられて自殺する子どもたちと、どこが違うと言えるだろうか。

教え手は、教わる側のためにある存在だ。私が「教師はサービス業」と言っていることの意味は、ここにある。私のような一匹狼は、都会にあるレストランのような存在だから、お客さんが気に入らなければ他の店に行くことを選択できる。しかし、専門学校の先生や、先生の存在が少なく、選択の余地が無い場合は、さらに大変なことになるだろう。もちろん、先生がたくさんいるところでも、先生を変えることには勇気がいる。だからこそ、教え手は、生徒の本当の要求を満たす努力をすべきだし、生徒が自分を選択しない可能性を排除してはならない。少なくとも、私は、自分の生徒に「あなたの指導は嫌です」と言える、最低限のコミニュケーションを怠らないようにしたいと自省しつづけなければならないと思っている。

「ヴァイオリン教師の資質」のところに、「レッスンが必ず先生本人で一対一で行われていることが必要」と書いたのは、もう5年以上前のことです。そんなことを書いた本人が、アシスタント制を使うようになるとは、思ってもいませんでした。

私が「先生が必ず本人で」と書いた理由は、高校生の時に自分が先生の代稽古をさせられた体験の反省からでした。教えることはそんなに簡単なことではなく、弟子が簡単に先生の代わりをすることなど許されないと考えたからです。また、友人の大手ヴァイオリン教室の先生が、「代行制度」があることを教えてくれたことも、その思いを強くした原因です。ところが、自分がこのような立場になってしまうと、私が持っているノウハウを少しでも広げたいと思うようになりました。

レイトスターターを主に教えてきた私ですが、最近こられる方は、体を痛めた専門家志望の方やベテランのアマチュアが増えてきました。その結果、私が感じてきたレイトスターターの問題点が、こうした人たちにも当てはまることが多いこともわかってきました。そこからさまざまな奏法を勉強してみると、いろいろなことがわかるようになってきたのだと思います。そうした中で、何人かのヴァイオリンの先生(や先生志望の方)と共に勉強をするようになり、少しずつ、私の方法論を広げていくことができるのではないか、と思うようになったのです。

試験的に、少しずつレッスンを分担することを続けてきましたが、非常に良い成果が上がるようになってきました。アシスタントの一人には、課題を決めたレッスンを分担していただいていますが、時間をしっかりかけたレッスンが必要な場合、非常に効果的です。もう一人は、分担していただく生徒さんへの私のレッスンに立ち会っていただき、その中で問題点を確認しながら、少しずつレッスンを分担し始めています。お二人ともきちんとした専門教育を受けられた方で、私のレッスンに最初は非常に戸惑われていましたが、最近は私の発想法を理解していただけるようになったと思います。結果として、お二人の経験が、私一人のレッスンよりも多くの成果を上げられるようになるのではないかと思っています。

通常のスタイルではできない、非常に贅沢な「アシスタント制」ですが、生徒さんのためにはとても良い方法なのではないかと自負しています。お二人のおかげで、私自身の勉強になることもたくさんあり、レッスンの質をさらに向上させることができるのではないかと期待しています。

実は、自分がヴァイオリンを教えることについてかなり迷った時期がありました。しかし、卒業して音大で修行している生徒が私に言ってくれた一言が、大きな力になりました。また、生徒さんたちが私のレッスンに期待することが大きくなっていくことを実感できたことも、このような形をとって少しでも輪を広げたいと思うようになった力です。先生を育てるのは生徒さんたちなんですね。私は、すばらしい生徒さんたちに恵まれて幸せな指導者だと思います。

ある人がこんなことを言っていたのを聞いたことがある。ちょっと過激な意見なのだが、顔をしかめないで聞いて欲しい。

「音大生って、毎日ヴァイオリンばっかり何時間も練習しているのに、どうしてそんなに上手くならない人がいるんだろう?」

この意見の真意は、「練習方法を考えれば、もっと伸びる可能性がある人が多いのではないか。多くの人が練習方法を間違っているのではないか」というところにある。練習している当人に「あまり上達しない」原因を求めているのだ。

これを聞いて、私は「教える側の問題も大きいのではないか」と考えてしまった。確かに「大学生にもなって自分で練習を工夫できないなんて論外。それは才能がないのと同じ」と言い切ってしまってもよいと思っている人も多いだろう。しかし、大きな問題が別のところにあるような気がしてならない。こんなことをずっと思い続けてきた。

私がそう思うようになったのには、いくつか原因がある。一つは、日本を代表する音楽大学を卒業した「プロ」が、先生として必ずしも優秀ではないことを知ったということがある。「音楽教師の資質」で、芸大出身のヴァイオリンの先生の話を例に出したが、プロとしてヴァイオリンを教えている先生の中にも決して「教える資質がある」とは言えない人が少なくない。

問題は、生徒が自分で考えることができないように育てられてしまった場合である。小さい頃からヴァイオリンを必死になって練習した。先生の言うことを全部信じて練習した。さて、それがその人にとって正しくなかった場合どうなるか・・・その生徒は、「才能がない」として除外されるか、体を痛めるか、精神を痛めるか・・・そんな例すら少なくないだろう。

なぜこんなことが起こるのか・・・私なりの結論は「日本の音大にまともな教授法の講座がない」ことも一因ではないかと思う。

音楽に限らないのだろうが、日本の大学の先生は、その大学で「順調に出世する」か、「目立った功績があった」場合に選ばれることがほとんどだ。音大の先生だって、指導法が優れているかどうかではなく演奏家としての実績で選ばれることが多い。芸大の先生の中にも、「自分は教えることが嫌いだ」と公言している人も実際にいる。

確かに、演奏家として一流のものを持っている人に習うことは意味があることだ。しかし、その人を頂点にして、みんなが「一流と同じベクトル」で音楽を教えてはいないだろうか。演奏家になれなかったというコンプレックスを持って(もちろん、自分も含めてである)、ヒエラルキーをなすかのような状況に陥っていないだろうか。それは、「教えることは演奏家として活動するより下のこと」という意識が強く存在しているからだろう。

もちろん、これは日本の社会全体に言えることだ。長島茂雄が名監督だと思う人はいないだろう。政治家の息子が政治家の資質を持っているとは言えないはずだ。しかし、日本人はそれを唯々諾々として受け入れてきた。音楽の世界だって例外ではない。

先生を変わったことがある人ならすぐに理解してもらえると思うのだが、「ちゃんとしたこと習ってなかったわねぇ」と言ってボウイングをいじくり回す先生は多くても、「なぜそのように教えたのか」を理解しようとして、生徒にあった奏法を考える先生は恐ろしく少ない。結果的に、以前のものに外側だけ違うものを付け加えていって・・・結果として、一貫性のない、体の使い方が滅茶苦茶な奏法を「あみ出して」しまう。最近、こんな例に3つほど立て続けて出くわした。深刻なのは、本人がそのことに気づかずに、自分をダメだと責めてしまうことだ。

教えるということは易しいことではない。教職課程で、法学や憲法を必修にして、肝心の教授法をまともに教えないのはどういうことだろうと思う。不思議の国、ニッポンですね。

最近、大人になってヴァイオリンを始める人が増えている。その増え方も半端じゃないようだ。ネットでHPを探すと、レイトスターターのホームページがいくらでも見つかる。そんなページの一つの特徴は、BBSを設置しているところが多いこと。仲間が集う場として機能しているのだろう。それはそれでよいのだが・・・

幾つかのサイトを見て回って、あまりにレヴェルの低い「議論」がなされているのを知った。この「レヴェルの低い」ということには、二通りの意味がある。「議論になっていない」という「論理的な」問題と、「教える側のレヴェルの低さ」ということだ。このレヴェルの低さが、「教える側に経験・知識がないから」という場合と、「教える側が頭が悪い」場合に分かれるような気がする。この「頭が悪い」ということを考えてみた。頭が悪い、ということが、音楽に果 たして関係があるか・・・

第一に、「自分が知っていること以外の世界があることを認められない」という「頭の悪さ」である。柔軟性の欠如、と言っても良い。

こういう人は、自分の経験をさも「普遍的な」事実であるかのように書く。例えば、「親の年収が1000万円を超えていないと、子どもを音楽家にすることはできないから、早く諦めなさい。」とか、「5才までに楽器を始めないとプロの演奏家にはなれません。お子さんはもう6才ですから、どんなに頑張っても無理です。」といった類である。ネットの怖いところは、こんなことを書いている人がどんな人か「見えない」こと。知らない人が読んだら、「そうか、じゃあ諦めるか・・・」ということになる可能性すらある。ひょっとしたら大演奏家になるかもしれない、一人の才能をつみ取ってしまうかもしれない。

これが「奏法」になると、さらにやっかいである。

ある演奏家の、「初心者のために」と銘打ったある「ヴァイオリン講座」の中で、「スピッカートとは弓を2~3センチの処から落としてバウンドさせて音を切る奏法」と書いている。この教師の頭の中を覗いてみたい。これで一体何が伝わるというのだろうか。もちろん、「現象的には」弓は「バウンド」しているように見える。しかし、これは「弾く」という動作が伴ってのこと。正確に言うと「バウンド」という言葉は間違いである。弦の弾力と、弦と弓の毛の反発にまかせた「バウンド」では、決してスピッカートにはならない。何とか音らしいものが出たとしても、「ゴキブリごそごそ」になること、請け合いである。

この先生は、もちろん小さい頃から楽器を弾いていただろう。そして、ある程度楽器を弾くことが「当たり前」になったときに、スピッカートに出会ったのだと思う。彼(彼女?)は、それまでの「弓をつけたままの」奏法と違うものとして、「弓を弾ませる」という認識を持ったのだ。その認識を持ってしまって、そこからは全く進歩できない。また、「楽器を始めたばかりの人」に「弓が離れる」ことを認識させるためにどうしたらよいか、という工夫もない。ただ、ことが「奏法」なだけに、言い逃れができる。先程の例(1000万円とか5才とか)と違って、その文章自体が100%の誤りであるとは言えないのだ。だから、困る。

こういう人たちが批判される側に回ると、「自分の意見を押しつけないでください」という姿勢になる。つまり、自分の考え方ではないものを見せられると、「押しつけられた」ように感じるのだろう。これは何も音楽の世界に限ったことではない。自分の世界以外を認められない人によく起こることである。この柔軟性の欠如は、生徒を教える人間として最も必要な資質を欠いているものだ。

第二に、相手の言うことを聞く能力の欠如である。これにも二通りの「頭の悪さ」が存在する。一つは、他人の言っていることを理解する能力そのものが欠如している場合、もう一つは自分のプライドや知識が人のいっていることを「曲げて」解釈したり、自分を批判していると考えてしまう場合である。

前者は論外。音楽教師の資質、ということではなく、人としてのコミュニケーション能力の欠如だ。しかしやりとりを読んでいると、こういう人、結構多いんですねぇ。もちろん、ヴァイオリンを教えている、という人もいます。

さて、後者。あるプロの演奏家の例ですが、自分に批判的なことを書いた人を、自分のサイトから排除した人がいるそうだ。ネットでは有名な演奏家だが、こういう人に習うと悲惨だと思う。そこまで露骨でなくても、生徒が質問したとき、その質問の本当の意味を理解できなくなってしまうことも多いだろう。自分の発想で相手を理解しようとすることは、教師としてもっともやってはいけないことの一つだ。しかしこういう先生、多いんですねぇ。

そして極めつけ。頭を使うことそのものを否定する先生。

こういう先生達のおきまりのフレーズがある。「そんなことを考えている暇があったら練習しなさい。音楽は頭でやるものではありません。音楽は感性でやるものです。」

あーあ、てなもんである。確かに、音楽は究極的には「自分の感性との勝負」になる。しかし、そこへ至る道のりは遠い。わかりやすい例をあげる。

一昔前まで、プロ野球の選手は、闇雲に「走れ」「千本ノックだ」「投げ込みだ」という「肉体派」の練習をさせられていた。「巨人の星」に出てくる「兎跳び」のシーンはその象徴。(兎跳びは、今、ほとんどのまともなアスリート達によって否定されている。膝を痛めるんですねぇ。それも半端じゃなく。)経験からわかることもあるし、論理的に排除されてきた練習もある。そして、「効果的に練習をするには」ということを「運動工学的に」考える人たちがいて、練習のスタイルが変わってきた。意味のない練習、害にすらなる練習が少しずつわかってきたからだ。

これを音楽に当てはめて欲しい。平均律でヴァイオリンの練習をすることなど、この兎跳びと全くよく似ている。確かに、心肺機能や足の筋肉は鍛えられる。しかし、膝を痛めてはお終いである。ピアノやチューナーに合わせて必死に訓練して、さて指が早く回るようにはなった。しかし・・・

 

セブシクやシュラディックを「判で押したように」やらせる先生もしかりである。生徒が「手が痛い」と言い出したら「まぁ、大変、ちょっとお休みしなさい。」・・・手の構造を知り、生徒の手の状態を把握して練習をさせていれば、そんなことにはならなかっただろうに・・・(かくいう僕も、そんなことを考えずに必死に練習した時期があった。もちろん、手を痛めてしまった。)

「感性」という言葉は、教師にとって便利である。生徒が伸びなければ、「この子には音楽的な感性がない」と、生徒のせいにできるから。教師は、生徒の百倍頭を使わなくてはならない。そんなことがわかっていない「教師」があまりに多いことを、ネットで知ってちょっとショックである。

僕が出会った「まともな先生達」は、僕の何百倍も頭を使っていると感じた。もっとも、演奏家としてもしっかりした人たちだし、奏法や解釈についての論文も幾つも書いている人たち(もちろん、日本でじゃありません。日本ではそういう論文を受け入れたり発表したりする場がない。)だから、僕なんかとはレヴェルが違う。そんな先生達の足元にも及ばないとは思うが、少なくとも「頭を使うこと」だけは惜しまないようにしようと思っている。

子どもの能力はとても測りにくいものです。それは、言葉の通じない外国へ行って医者にかかるのに似ています。

急な腹痛を起こして、言葉の通じないところで病院に行ったとします。顔からは脂汗を流している。おなかを抱えて体をくのじに折り曲げている。どうやら、おなかが痛いということは通 じそうです。場所も・・・なんとかなるかもしれません。「どういう風にいたい?」これはちょっと難しいですね。「薬のアレルギーありますか」ああ、もうお手上げです。

子どもがどんな能力を持っているかということを見抜くには、三つの大きな力が必要です。それは、その時点で子どもが表現していることを理解すること、それをどうやって獲得したかを見抜くこと、そして、その子どもの可能性を想像できること、です。

多くの先生は、その子どもが「正しい音程で弾いているか」「正しいリズムで弾いているか」ということは、もちろんわかります。おなかがいたいのは、おなかを抱えていればわかるのと一緒。さて、それが一体どうやってその子の身に付いたのか、または、その子が本当に表現していることなのか、ということを見抜くのは、かなり高度な力が必要です。「どういう風に痛いのか」ということをいろいろな状況から判断することに似ています。そして、その子どもの可能性を理解することは、正しい治療法を組み立てることとよく似ています。ある薬にアレルギーがあるのに、それを説明できずにつかわれてしまっては、しゃれになりませんね。

私の友人の生徒に、とても面白い子がいます。彼は、とっても「生意気な」演奏をします。おかげで、コンクールでの評価はまちまち。特に、「権威のある」先生たちには不評。だって、しきたり通り演奏しないんですから。それがあるとき、ロシアから来た特別審査員の先生が「すばらしい」と評価してくれました。もちろん、日本人の他の先生の評価は・・・「?」

子どもの個性と能力を殺してしまう先生についていると、子どもは本当に可哀想です。「このように弾くのが正しいのです」と強要され、やがて音楽をすることが楽しくなくなってしまいます。そういう先生は、また、子どもの能力を見抜くことができない場合が多い。特に、子どもが「先生の理解を超えた」能力を持っていた場合、これはその子にとっての不幸だけでなく、ひょっとしたら人類にとっての損失かもしれません。

先生は、ご自分が習ってこられた道筋があり、まずそれで評価しようとします。そして、多くの場合、「先生は理屈を知っている」のです。これが実は大きな落とし穴になることがあります。

例えば、「このトリルは上からかけるのが定法」とか、「このフレーズはここで切るのが正しい」などといった「情報」を、先生は持っています。子どもはその情報がありません。もちろん、先生に教われば、無批判にそうする子どもが多いでしょうが、子どもは「自分が気持ちがよいと思うように」弾いてみてしまうものです。実は、これがとても大切なこと。その子どもが持っている感性を知るには、こんなよいチャンスはないのです。それを、「しきたりと違う」という理由で「子どもがなぜそう弾いているか」ということを考えもせずに修正してしまうと、その子どもの持っている感性を理解することはできないのです。

先生を選ぶとき、お子さんを「どんな目で見ているか」(耳で聞いているか、かな)と注意してください。もちろん、大人でもです。そして、先生が生徒を、ご自分の感性と常識で「塗り込めて」しまおうとしているのなら、すぐに先生を替わりましょう。

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