柏木真樹 音楽スタジオ

トップページ > 音楽を教えるということ > 音楽教師の資質番外編…頭の悪い音楽教師

最近、大人になってヴァイオリンを始める人が増えている。その増え方も半端じゃないようだ。ネットでHPを探すと、レイトスターターのホームページがいくらでも見つかる。そんなページの一つの特徴は、BBSを設置しているところが多いこと。仲間が集う場として機能しているのだろう。それはそれでよいのだが・・・

幾つかのサイトを見て回って、あまりにレヴェルの低い「議論」がなされているのを知った。この「レヴェルの低い」ということには、二通りの意味がある。「議論になっていない」という「論理的な」問題と、「教える側のレヴェルの低さ」ということだ。このレヴェルの低さが、「教える側に経験・知識がないから」という場合と、「教える側が頭が悪い」場合に分かれるような気がする。この「頭が悪い」ということを考えてみた。頭が悪い、ということが、音楽に果 たして関係があるか・・・

第一に、「自分が知っていること以外の世界があることを認められない」という「頭の悪さ」である。柔軟性の欠如、と言っても良い。

こういう人は、自分の経験をさも「普遍的な」事実であるかのように書く。例えば、「親の年収が1000万円を超えていないと、子どもを音楽家にすることはできないから、早く諦めなさい。」とか、「5才までに楽器を始めないとプロの演奏家にはなれません。お子さんはもう6才ですから、どんなに頑張っても無理です。」といった類である。ネットの怖いところは、こんなことを書いている人がどんな人か「見えない」こと。知らない人が読んだら、「そうか、じゃあ諦めるか・・・」ということになる可能性すらある。ひょっとしたら大演奏家になるかもしれない、一人の才能をつみ取ってしまうかもしれない。

これが「奏法」になると、さらにやっかいである。

ある演奏家の、「初心者のために」と銘打ったある「ヴァイオリン講座」の中で、「スピッカートとは弓を2~3センチの処から落としてバウンドさせて音を切る奏法」と書いている。この教師の頭の中を覗いてみたい。これで一体何が伝わるというのだろうか。もちろん、「現象的には」弓は「バウンド」しているように見える。しかし、これは「弾く」という動作が伴ってのこと。正確に言うと「バウンド」という言葉は間違いである。弦の弾力と、弦と弓の毛の反発にまかせた「バウンド」では、決してスピッカートにはならない。何とか音らしいものが出たとしても、「ゴキブリごそごそ」になること、請け合いである。

この先生は、もちろん小さい頃から楽器を弾いていただろう。そして、ある程度楽器を弾くことが「当たり前」になったときに、スピッカートに出会ったのだと思う。彼(彼女?)は、それまでの「弓をつけたままの」奏法と違うものとして、「弓を弾ませる」という認識を持ったのだ。その認識を持ってしまって、そこからは全く進歩できない。また、「楽器を始めたばかりの人」に「弓が離れる」ことを認識させるためにどうしたらよいか、という工夫もない。ただ、ことが「奏法」なだけに、言い逃れができる。先程の例(1000万円とか5才とか)と違って、その文章自体が100%の誤りであるとは言えないのだ。だから、困る。

こういう人たちが批判される側に回ると、「自分の意見を押しつけないでください」という姿勢になる。つまり、自分の考え方ではないものを見せられると、「押しつけられた」ように感じるのだろう。これは何も音楽の世界に限ったことではない。自分の世界以外を認められない人によく起こることである。この柔軟性の欠如は、生徒を教える人間として最も必要な資質を欠いているものだ。

第二に、相手の言うことを聞く能力の欠如である。これにも二通りの「頭の悪さ」が存在する。一つは、他人の言っていることを理解する能力そのものが欠如している場合、もう一つは自分のプライドや知識が人のいっていることを「曲げて」解釈したり、自分を批判していると考えてしまう場合である。

前者は論外。音楽教師の資質、ということではなく、人としてのコミュニケーション能力の欠如だ。しかしやりとりを読んでいると、こういう人、結構多いんですねぇ。もちろん、ヴァイオリンを教えている、という人もいます。

さて、後者。あるプロの演奏家の例ですが、自分に批判的なことを書いた人を、自分のサイトから排除した人がいるそうだ。ネットでは有名な演奏家だが、こういう人に習うと悲惨だと思う。そこまで露骨でなくても、生徒が質問したとき、その質問の本当の意味を理解できなくなってしまうことも多いだろう。自分の発想で相手を理解しようとすることは、教師としてもっともやってはいけないことの一つだ。しかしこういう先生、多いんですねぇ。

そして極めつけ。頭を使うことそのものを否定する先生。

こういう先生達のおきまりのフレーズがある。「そんなことを考えている暇があったら練習しなさい。音楽は頭でやるものではありません。音楽は感性でやるものです。」

あーあ、てなもんである。確かに、音楽は究極的には「自分の感性との勝負」になる。しかし、そこへ至る道のりは遠い。わかりやすい例をあげる。

一昔前まで、プロ野球の選手は、闇雲に「走れ」「千本ノックだ」「投げ込みだ」という「肉体派」の練習をさせられていた。「巨人の星」に出てくる「兎跳び」のシーンはその象徴。(兎跳びは、今、ほとんどのまともなアスリート達によって否定されている。膝を痛めるんですねぇ。それも半端じゃなく。)経験からわかることもあるし、論理的に排除されてきた練習もある。そして、「効果的に練習をするには」ということを「運動工学的に」考える人たちがいて、練習のスタイルが変わってきた。意味のない練習、害にすらなる練習が少しずつわかってきたからだ。

これを音楽に当てはめて欲しい。平均律でヴァイオリンの練習をすることなど、この兎跳びと全くよく似ている。確かに、心肺機能や足の筋肉は鍛えられる。しかし、膝を痛めてはお終いである。ピアノやチューナーに合わせて必死に訓練して、さて指が早く回るようにはなった。しかし・・・

 

セブシクやシュラディックを「判で押したように」やらせる先生もしかりである。生徒が「手が痛い」と言い出したら「まぁ、大変、ちょっとお休みしなさい。」・・・手の構造を知り、生徒の手の状態を把握して練習をさせていれば、そんなことにはならなかっただろうに・・・(かくいう僕も、そんなことを考えずに必死に練習した時期があった。もちろん、手を痛めてしまった。)

「感性」という言葉は、教師にとって便利である。生徒が伸びなければ、「この子には音楽的な感性がない」と、生徒のせいにできるから。教師は、生徒の百倍頭を使わなくてはならない。そんなことがわかっていない「教師」があまりに多いことを、ネットで知ってちょっとショックである。

僕が出会った「まともな先生達」は、僕の何百倍も頭を使っていると感じた。もっとも、演奏家としてもしっかりした人たちだし、奏法や解釈についての論文も幾つも書いている人たち(もちろん、日本でじゃありません。日本ではそういう論文を受け入れたり発表したりする場がない。)だから、僕なんかとはレヴェルが違う。そんな先生達の足元にも及ばないとは思うが、少なくとも「頭を使うこと」だけは惜しまないようにしようと思っている。