柏木真樹 音楽スタジオ

トップページ > 音楽を教えるということ > 音楽教師の資質2…ヴァイオリンのボウイングを例に

音楽の技術を教える、という作業が個人対個人のものである、また、マニュアルが存在しない、ということを、ヴァイオリンのボウイングを例にとって説明します。

ヴァイオリンという楽器は、肉体的にいろいろな無理を要求します。左手は「ねじった」ような形を強いられますし、右手は「ひねった」形を要求される場合があります。子どもの頃からヴァイオリンを弾いていると、体の形がかなり変形します。昔私が腱鞘炎をやってしまったときに、整体の先生にかかったら、何にも説明していないのに、「あなた、ヴァイオリン弾きでしょ」と言われました。その先生に言わせると、音楽家、特に弦楽器奏者は、楽器の種類まで含めてすぐわかるそうです。それほど肉体的に「変形」を強いる楽器なんです。

さて、こういう楽器ですから、長い間「理想の持ち方」「理想のボウイング」を求めて、多くの人々が苦しんできました。弦楽器の物理的な原則から言うと、「弓が弦に垂直に交差した状態で、まっすぐ重みがかかる」ことが理想です。しかし、それを実現する持ち方で持ってしまうと、弓の半分も使えません。弓を全部使えないと言うことは、もちろん表現する可能性が著しく低下するわけですから、「肉体的に無理がない・・・可能な」持ち方と「楽器の物理的な構造に無理のないボウイング」との整合点を見いだすことは、とても大変な作業だったのです。

モダンヴァイオリン(注)のボウイングは、大きく分けて二つの流派がありました。一つは「ロシア」派、もう一つは「ベルギー」派です。(呼び方は何通 りかありますが、このさいどうでもよい。)この二つの流派には、決定的な違いがありました。基本的な差は、「手で音をコントロールする」のか、「弓と弦との関係を自然にすることで演奏効果 を上げるか」という違いです。前者は、ハイフェッツに代表される奏法で、日本のヴァイオリン教育も、主にこの流派の延長上にありました。(歴史的な背景を書くと長くなるので割愛しますが、ロシア・上海系のヴァイオリン教師とその弟子によって日本のヴァイオリン教師がたくさん育てれらたことに由来します。)後者は、グリュミオーなどが代表です。

実際の演奏を見ると、その差は一目瞭然です。前者は、手首を自由にコントロールし、弓を右手の左側に重心を取って持ちます。ですから小指、場合によっては薬指、中指までもが、弓から離れてしまうこともあります。後者は指が弓に「すいついて」いるように見えます。

どちらがよいか、ということをここで議論するつもりはありません。実際、現在は両方の利点を生かした独自のボウイングを持っている演奏家もたくさんいます。特に、ドイツの中堅・若手の研究を読むと、自分たちが背負ってきた「流派の重し」から自由になっている人たちがたくさんいます。

さて、ここで問題にするのは、「教師が教えるときにどんなボウイングを教えるか」ということです。

身長180センチ、体重90キロの人が弾くなら、ボウイングをあれこれ悩まない。なぜなら、「手が届く」し、「腕の重みが十分ある」からです。でも多くの人、特に日本人の女性は、腕の長さも十分ではないし、重みも足りません。ですから、「それでも演奏できる」ボウイングが必要です。また、大人になってから楽器を始めた人に対しては、「子どもが成長の過程で体の変形を伴って実現できる」ボウイングを教えることは、現実的ではありません。

多くのヴァイオリン教師は、「自分のメソッドで」教えようとします。子どもに対する場合は、かなりの確率で「なんとかなります」。しかし、よりよい方法を生徒と考える可能性はありません。これが大人に対する場合、悲劇を生みます。先生はおおかた子どもの頃から楽器を弾いてきた人です。ですから、大人の「できないこと」を理解する力が要求されます。しかし、先生自身のやりかたに固執してしまっては、生徒の「フィジカルな」要求すら満たすことはできません。

先生が「よい教師になる」道は、いくつかあります。一つは、「いろいろな方法を知る」ということです。自分が歩んできた流派にこだわらず、いろいろな奏法を先生自身が「勉強し」、生徒に合った方法をレッスンすることです。また、「生徒に合わせて」いろいろな方法を探る力が先生にあれば、あらたなシステムを生むことだって可能です。音が出るシステムは物理ですから、それに反しないように注意すれば、新しいシステムを構築することだって可能でしょう。

このような努力を放棄した先生に師事することは、はっきりいって「自殺行為」です。自分(ないしお子さん)の可能性をつみ取ってしまうことになる危険性があります。もちろん、他の楽器でも同じことが言えるでしょう。全ての子どもに同じエチュードを与える先生は、子どもの個性を殺してしまうでしょうし、肉体的にも無理を強いることになるでしょう。子どもにあった選曲、順序をいつも悩んでいる先生なら、生徒さんによってやることが違うはず。

私は、音楽は全人格を反映するものだと思っています。ですから、一人一人の生徒に合った教え方を考えることは、音楽教師の「最低の」条件だと思っているのです。