子どもの能力はとても測りにくいものです。それは、言葉の通じない外国へ行って医者にかかるのに似ています。
急な腹痛を起こして、言葉の通じないところで病院に行ったとします。顔からは脂汗を流している。おなかを抱えて体をくのじに折り曲げている。どうやら、おなかが痛いということは通 じそうです。場所も・・・なんとかなるかもしれません。「どういう風にいたい?」これはちょっと難しいですね。「薬のアレルギーありますか」ああ、もうお手上げです。
子どもがどんな能力を持っているかということを見抜くには、三つの大きな力が必要です。それは、その時点で子どもが表現していることを理解すること、それをどうやって獲得したかを見抜くこと、そして、その子どもの可能性を想像できること、です。
多くの先生は、その子どもが「正しい音程で弾いているか」「正しいリズムで弾いているか」ということは、もちろんわかります。おなかがいたいのは、おなかを抱えていればわかるのと一緒。さて、それが一体どうやってその子の身に付いたのか、または、その子が本当に表現していることなのか、ということを見抜くのは、かなり高度な力が必要です。「どういう風に痛いのか」ということをいろいろな状況から判断することに似ています。そして、その子どもの可能性を理解することは、正しい治療法を組み立てることとよく似ています。ある薬にアレルギーがあるのに、それを説明できずにつかわれてしまっては、しゃれになりませんね。
私の友人の生徒に、とても面白い子がいます。彼は、とっても「生意気な」演奏をします。おかげで、コンクールでの評価はまちまち。特に、「権威のある」先生たちには不評。だって、しきたり通り演奏しないんですから。それがあるとき、ロシアから来た特別審査員の先生が「すばらしい」と評価してくれました。もちろん、日本人の他の先生の評価は・・・「?」
子どもの個性と能力を殺してしまう先生についていると、子どもは本当に可哀想です。「このように弾くのが正しいのです」と強要され、やがて音楽をすることが楽しくなくなってしまいます。そういう先生は、また、子どもの能力を見抜くことができない場合が多い。特に、子どもが「先生の理解を超えた」能力を持っていた場合、これはその子にとっての不幸だけでなく、ひょっとしたら人類にとっての損失かもしれません。
先生は、ご自分が習ってこられた道筋があり、まずそれで評価しようとします。そして、多くの場合、「先生は理屈を知っている」のです。これが実は大きな落とし穴になることがあります。
例えば、「このトリルは上からかけるのが定法」とか、「このフレーズはここで切るのが正しい」などといった「情報」を、先生は持っています。子どもはその情報がありません。もちろん、先生に教われば、無批判にそうする子どもが多いでしょうが、子どもは「自分が気持ちがよいと思うように」弾いてみてしまうものです。実は、これがとても大切なこと。その子どもが持っている感性を知るには、こんなよいチャンスはないのです。それを、「しきたりと違う」という理由で「子どもがなぜそう弾いているか」ということを考えもせずに修正してしまうと、その子どもの持っている感性を理解することはできないのです。
先生を選ぶとき、お子さんを「どんな目で見ているか」(耳で聞いているか、かな)と注意してください。もちろん、大人でもです。そして、先生が生徒を、ご自分の感性と常識で「塗り込めて」しまおうとしているのなら、すぐに先生を替わりましょう。