柏木真樹 音楽スタジオ

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5月5日に発表会があり、生徒の半分弱が出演します。そろそろ、みなさん、本番に向けてラストスパート。そんな中で、ちょっと面白い(本人は深刻なのですが・・)ことがありました。皆さんにも気をつけてほしいことなので、(本人の了解を取った上で)暴露しちゃいます。

この生徒さん、発表会でかっこ良く弾くために、約一ヶ月前から筋トレを始めました。ダイエット効果も期待できますから、ステージ映えもするはず。もちろん、ボウイングの邪魔になる大胸筋を鍛えるトレーニングは「パス」です。十分に注意してやったはずでした。ところが・・・

2週間ほど前のレッスンのこと、最初のボウイングから、どうも調子が悪く見えます。私の目から見ると、明らかに肩甲骨を上方回旋運動させて腕を上げるのがつらそう。結果的に、腕を短くしか使えない状態になっていました。それで、筋トレをやっていることがバレてしまったのです。

やっていた運動は、上から下がっているバーを下に引く、というもの。これは、肩甲骨の下方移動を伴う運動です。つまり、肩甲骨を「がっちりと」止めてしまう練習をしていたことになるのです。腕が上がらなくなったのも、道理でした。

筋トレは、合理的にやるととても効果的です。しかし、ヴァイオリンを弾くためにどのような運動がよいか、ということは、よく考えて行なわなければなりません。

ついでに、もう一つ。ヨガやピラティスのグループレッスンの危険性も書いておきましょう。解りやすい筋肉を鍛えるのでなければ、筋トレはとても難しく、似たような運動に見えても、全く違う結果を生んでしまうことがあります。こうしたもののグループレッスンは、役に立たないだけでなく、危険です。特に、始めたばかりの生徒に大技をやらせるようなレッスンは、絶対に受けない方がいいですよ。

空間認知能力について問題を抱えている生徒さんの話の続編として「3Dと2D さらに音感との関係」話を書きました。それを受けて掲示板に書き込みがあり、関連した話として、そのやりとりもあげておきます。(掲示板形式で少し読みづらいとは思いますがご容赦下さい。 )

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Harryさん

お返事が遅くなりました。とても大きなテーマで、なかなか書くべき内容がまとまらなかったことと、体調を崩したりしていたことなどもあり、時間がかかってしまいました。申し訳ありません。書く順序もばらばらになりますが、ご容赦ください。Harryさんの書き込みは、改行を変えて引用させていただきました。この点もご了解ください。

 

 > 空間把握能力に問題ある人は、例えば色彩や響きの感覚が優れて
 > いるとか、時間把握力がよいとか、別の能力がきっとあると思い
 > ます。欠点を認識して矯正することも大事ですが、別の能力を見
 > つけることも重要。うまく欠点をカバーできればもうけものです。

よく、視覚障害者が聴覚が優れていることなどが語られます。これは、脳の働きと密接な関係があると思います。視覚に使われる部分が使われず、聴覚に脳の働きを集中できることもあるでしょうし、視覚で判断できないことを聴覚などの他の感覚を利用して判断する必要性が、そうした他の感覚を研ぎすます、ということもあるでしょう。今回のケースは、こうした事例とは全く反対の現象なのです。つまり、空間把握能力がないことと、音程間隔を判断できないことが同時に起こっている、しかも、それがどうやら脳のある特定の部分の働きと関係があるのではないか、ということなのですね。

多くの人が荒唐無稽な話だと思うかもしれませんが、あれこれと探っていると、どうも「距離」と「位置の相対的な関係」がキーワードのような気がしてきたのです。物理的な(三次元的な)距離を把握するための空間認知能力と、周波数の相対関係を捉える(音の位置、距離と言い換えても良いでしょう)認知能力が、脳のある特定部分の同じ働きを必要としているのではないだろうか、というのが、私の推論の根本です。

この推論にたどり着いたのは、既に書いたように、この生徒が空間を把握する方法と、音程間隔を把握する方法論がとても「似ていた」からです。

このことは、

 > さて、2Dと3Dと音感の話は興味深い。私は、空間感覚と色彩感覚も
 > 音楽とかなり関係があると感じています。私は数学とくに幾何学が
 > 好きですし、絵を描くときはボールペンでスケッチするのが好きです。

こういうこととも関係があると思いますが、同じ関係ではないかもしれません。特に、色彩感覚については、非常に興味があります。音に関するイメージが色彩感覚とリンクしていることがとても多いからです。

よくあるケースは、ある種の和音に色彩をイメージすることです。各和音の持つ特有の響きを色に当てはめることがよくあります。「F-Durはおとなしいピンク」「Gは青」「Aはわりと派手な赤」などという表現を目にされたこともあるはずです。これらは、和音という音の相対関係の個性を色彩が持つイメージに当てはめたと考えられます。ですから、距離感を計ったり、音程間隔を判断したりという頭の働きとは、若干違う方向の事象でしょう。

と、思っていたら、音高そのものを色で覚えている生徒に出会いました(これは、ずいぶん前のことですが)。この話は書いた記憶がないのですが、この生徒は、与えられた音(まさに音高そのもの)にそれぞれの色を当てはめていたのです。鈴木メソードでヴァイオリンを始めたために、音符と音高/音程、運動が頭の中で連動せず(これは、このメソードの最大の問題点です)、それを補うために「色」を用いるようになったのだと推測されますが、こうなると、相対的な音高の位置関係を把握することがとても難しくなります。赤と青を足したら紫、というような関係性を、「ドとミとソを合わせると長三和音の響き」とリンクさせることは困難だからです。かといって、音高自体に色を感じていると、和音や音程に対して色彩を持つことは難しいのです。

もちろん、音程に色を感じる人もいます。「和音には独特の色がある」という感覚を主張する人に対して「色合いがあるのは音程。和音ではなく、音高の間隔にそれぞれの色合いがあるのだ」という主張です。私には、音高自体に色を感じる人よりも、音程に色を感じるこの意見の方がなんとなく理解しやすいとは思います。

空間認知能力と音程を感じる能力の問題に共通項を感じたのは、こうした「音を感じることが人によって脳の違う部分を使うことがある」という例を見ていたからだと思います。実際に空間認知能力と音程を判断する能力についてどのような判断が同じなのか、という「核心部分」については、もう少しデータを収集してから判断したいと思っています。

 

 > しかし、いざ色をつけようとすると戸惑ってしまいます。音楽の好みは、
 > バロック器楽やカルテットで、オーケストラの派手な響きは苦手です。
 > 最近になって自分の性向、複数の線のアンサンブルに惹かれ、絢爛たる
 > 色彩はあまり心に響かないことが、絵でも音楽でも同じであることに
 > 気づいたときは、驚きもし、大いに納得しました。私の性向なり好みが
 > よく分かったので、この方向を伸ばしながら、響きの感受性も少しずつ
 > 高めたいと思っています。

私の実家は、カラーテレビを導入したのがとても遅かったのですが、その理由は、母親が「カラーテレビだとイメージを作る能力が育たない/正確な色調がわからなくなる」と感じたからだそうです。「総天然色」(わかる人は、年齢がばれます・・苦笑)は、明らかに人工的な「無理に当てはめた」色だったと思います。何故、こんなエピソードを書くのかというと、Harryさんの書かれたこの部分につながるものがあると思ったからです。

少し違った例を出しますが、例えば、ドビュッシーの小組曲をオーケストラヴァージョンで聴くこと/弾くことは、私はあまり好きではありません。小さい頃からドビュッシーやラヴェルなどのフランス音楽(ピアノのもの)が大好きだったので、よく聴きましたし、自分でも好んで弾いてきましたが、オーケストラ版を聴いて、非常に驚きました。それは、音を聴いて自分がイメージすることができる領域が非常に狭いことに気がついたからです。ピアノの時に感じた、自分の中のイメージが広がっていく楽しさが、オーケストラ版だとほとんど感じられないのです。ちょっと、ヒントになりましたでしょうか?

(話を広げすぎると大変なことになってしまいますが、直接くすぐって笑わせることと、面白いと思って笑うという脳の働きを刺激することは違います。フジテレビか/古典落語か、なんていう例示をすると短絡的ですが、こんなことも、関連することとして考えられるかもしれませんね)

 

 > さて、ここからが問題です。私ひとりでこういう音楽の線的とらえかたを
 > 深めていくのは、問題ないのですが、一緒にアンサンブルをしているとき、
 > 線で捉えることの苦手な人がいるということが問題になります。もしかすると、
 > 普通の人は響きの感受性の方が高いのではないか、私は響きの感受性が
 > 鈍いのでは、と恐れています。技術的な問題にも影響していると思います。

受け止める感性の問題なのか、弾いている時に「イメージを聴きながら弾く」か、「音を聴きながら弾く」かという違いなのか、「イメージを広げる方向」の問題なのか、まだまだ可能性はありますが、アンサンブルをすると、捉え方の違いで感じ方が全く異なる人がいることは確かです。「チャイコフスキーが好きか、ベートーヴェンが好きか」は妥協の余地がありませんが、こうした違いを知ってアンサンブルをやることも、実は面白いことかもしれません。

 

 > テンポ感のなさ(走ること、私の問題)を、空間把握能力で補う方法は
 > ないでしょうか?テンポやリズムを感じるために、頭の中に格子を思い
 > 浮かべ数えればよいでしょうか。

テンポ感のなさ、と言う問題も、とても大きなテーマです。一定のビートを打ち続ける能力が必要なのか、あるリズムを安定した状態で続けられる能力が必要なのか、リズムの感じ方の問題(例えば、2拍子で取るべきものを4拍子でとっているとテンポが安定しなくなる、など)もからんでいるのか。他にもたくさんの可能性がありますが、いくつかはウェブ上に書いてありますので、ご覧下さい。

今年になってから、ヴァイオリンを初めて持つ方が3人、新しい生徒さんになりました。アシスタントの先生との分担が定着したので、ほとんどお断りしていた新しい生徒さんを何人か増やすことができたことが理由です。そうした生徒さんたちにお勧めしている楽器が、サラサーテにも書いた、16万ほどの中国製のヴァイオリンです。

中国製のヴァイオリンが出始めたときに、興味を持ってかなりたくさん弾いてみました。もう15年くらい前になるのではないかと思います。セットで2万、なんていうとんでもないものもあり、音ももちろんひどいですが、ペグがきちんと動かなかったり、駒が無茶苦茶、なんていうことも少なくなく、当時の楽器は「安い、だけど使わせたくない」と言う代物がほとんどでした。中国製=粗悪品、というイメージを持っている人も多いでしょう。ところが、数年前にいきつけの楽器屋さんで中国製のヴァイオリン(その楽器屋がコンセプトメイクをしたもの)を弾かせていただいて、いっぺんに印象が変わりました。この楽器、ちゃんとヴァイオリンの音がするのです。

さらに驚いたのが、一昨年から手に入るようになった弓です。一つは4万ほど、もう一つは15万ほどのものですが、びっくり。あちこちに書いていますが、「弓はできるだけ良いものを買って始めて欲しい」というのが私の考え方で、それまでは、最低でも12万ほどの弓を勧めていましたが、最初にこの4万の弓に出会った時以来、これで十分スタートできる、と思いました。実際、指導者やプロに弾いていただいても、「この値段は信じられない」と、皆さん口を揃えておっしゃいます。

ところが、これにとどまりませんでした。昨年、この上クラスの弓(定価15万)が登場。これがとんでもないシロモノだったのです。性能も音質も、それまで勧めていた30万ほどのフレンチの弓にほとんど遜色ありません。試しに、何人かのプロに弾いていただいたところ、一番安い値段をつけた方が30万、なんと80万とおっしゃった方もいました。生徒の中でも何人かが買い替えたのですが、比較的定評のある二十数万のフランス製から、この中国製に乗り換えた人もいるほどです。結果的に、最近始められた方は、これらのものでスタートできるようになりました。

中国、恐るべし。

以前、空間認知能力について問題を抱えている生徒の話を書きました。その続編です。

この生徒さんは、さまざまな問題を抱えているのですが、音程を相対的に捉えることができないことも、大きな問題でした。いろいろと音感を試した結果、擬似的に絶対音感(のようなもの)を認知していて、それを利用して音程を取っていました。もちろん、正確な音程がとれるはずはなく、どのように相対的な音感を身につけたらよいのか、試行錯誤を繰り返しているところです。ところが、最近のレッスンで、興味深いことがわかってきました。少々長くなりますが、書いてみたいと思います。

この生徒さんが抱えていた空間認知能力の問題を、前回書いた時には、運動論で考えてみました。つまり、自分の行動を「予知」し、「認識する」ことに問題があるという仮説の基に、解決策を見つける努力をしていたのです。結果として、日常生活が大きく変化しました。コップの中身をこぼしたり、エレベーターの階を押し間違えたりという、「行動の意図」と「実際の行動」の乖離がかなり解消されたのです。これをヴァイオリンに当てはめてみると、運動方法がかなり変化する「はず」でした。ところが、弓の運動方向を予想することができるようになっても、「弓が弦に対して垂直に当たっているかどうかを検証できない」という状況には変化がありませんでした。ということは・・空間認知能力そのものに対する疑念が生じたのです。行き当たった先は、空間を三次元的に捉えることができていないという根本問題でした。さまざまな話をする中で、「ひょっとして、私がアニメを見ているように、現実の世界を捉えているのではないか」という疑問にぶつかったのです。

私たちは、実写(映画など)を見た時とアニメを見たときの感じ方が違います。同じ「平面の」スクリーンに現れた画像でも、実写であれば三次元的に捉えることができますが、アニメであるとそれが難しくなります。最近は、3Dに見えるコンピューターグラフィックなどが実用化されていますが、それでも、実写とはどこかに違いを感じるものです。これは何故なのでしょうか。

私は、「経験値による無意識の修正」を、その理由として捉えてきました。つまり、実写を見ている時には、写されている現象を自分がしてきた経験、見てきたものを情報として利用し、平面上の画像を三次元的に「変換している」のだろうと考えているのです。これが正解かどうかはわかりませんが、いくつかの補強材料がありました。例えば、小さな子どもは、距離感を認識することができません。運動を伴う場合は、「認知した情報と運動の量や方向との乖離」として説明できますが、運動を伴わない場合は、経験によって距離感を認識できるようになるはずです。それが、本来的に人間の脳の発達に組み込まれているものであるとしても、実際に経験することが、そうした「三次元的な」情報処理を可能にしているのだろうと推測することが可能です。実写とアニメを比べてみた時にアニメに距離感を感じない理由が、例えば「遠近法」の不整合や不正確さであるという説明に若干の無理があると感じていたことも、その理由です。最近のレッスンでこの話をした時に、結果が明らかになりました。この生徒さんは、「実写もアニメも同じように見える」ということがわかったからです。

この状態を説明するのに、述べたような「経験値による修正の有無」が役に立ちます。成育の過程で、目に映るものを3Dとして感じる力を養成できなかったとすると、この生徒さんが抱えていたさまざまな問題に説明がつくのです。もちろん、幼少の頃の「運動と視覚の情報の乖離」が原因なのか、そもそも「視覚を3Dに変換する何かが欠落していたのか」というレヴェルでは判断できません。しかし、現実の生活やヴァイオリンを弾くことについては、その原因を追及するより、現状からその「3Dに感じる感覚を手に入れる」ないし「擬似的な方法を使って同じような効果が得られるようにする」ことの方が大切であることは明らかでしょう。

これが解決できると、弓が弦に対して垂直に当たっているかどうかを判断する能力だけでなく、例えば、大型免許の取得に必要な距離の把握などに応用が利くはずです。こうした研究をなさっている方もいるはずですが、現在のところヒットしていません。ただ、問題の根本が抽出できたことで、訓練の方向性が見えてきたことだけは確かです。新しいテーマとして練習(ヴァイオリンに限らず)していただいていますが、何らかの進歩があれば、またご報告したいと思います。

さて・・・実は、ここからが本質です。述べてきたような「感覚の欠落」を、相対音感がない/不十分であるケースに応用できないか、ということなんです。漠然としたものはあるのですが、ハッキリしたものは見えていません。しかし、この生徒さんと私の間では、これまでの経緯を考えて、どうやらこの二つのことが無関係ではないのではないか、という共通認識ができつつあります。この問題については、何か進捗があった時に、また書いてみようと思います。

何人かの例があったのですが、最近、あるベテランの生徒さんのレッスンでふたたびこの現象を目にしたので、忘れないうちに書いておきます。

一緒に弾いていると、自分の音を私の音より少し高めに取ろうとしてしまうことで、この症状が判明します。特に、オーケストラばかりで弾いていると起こりやすいのですが、自分の音が聞こえないと不安になる心理状態から発生することだと考えられます。二人の音が完全に一致すると、まるで音が溶けたような状態になります。すると、自分の音が独立して聞こえなくなります。その瞬間「しまった」と感じて、自分の音が聞こえるように音程を微調整(多くの場合は少し高くする)してしまうのです。もちろん、ベテランであれば無意識に、瞬間的に修正してしまうので、「しまった」とすら感じません。ですから、自分の音程が合わせるべき基準より高いことに多くの場合は気がつかないのです。

これは、オクターヴを弾いた時にさらにハッキリする場合があります。上の音を、完全に協和した状態よりやや高く取ってしまうのです。これには、二つの原因と、二つの問題があります。

原因のひとつは、上に述べた通りの「不安な心理」です。オクターヴが完全に協和したとき、差音のいたずらで下の音が大きく響き、上の音がほぼ聞こえなくなってしまいます。すると「合っていない」と判断してしまい、音が二つにはっきり聞こえるように、上の音をわずかにずらしてしまうのです。

二つ目の原因は、演奏家がソロを弾く時の音程にあります。ソロの中でオクターヴの進行が出てきたとき、上の音の進行をしっかりと聞かせるために、オクターヴをやや広く(上の音高を少し高く)取ることがあります。指導者が演奏家である場合、音大(音高)でも、オクターヴのスケールを「広く」取るように指導することも少なくありません。これはこれで、必要なテクニックなのですが、「オクターヴはこういうものだ」と、微妙にずれた状態を合っていると判断してしまう習慣がついてしまう恐れが強いのです。実際に、そうした音程「しか」取れなくなってしまった人を何人か見てきました。積極的に上を高く取る練習をしてきた人もいましたし、結果としてそのような状態になってしまった人もいました。

最大の問題は、音を合わせることができなくなってしまう危険性が強いことです。今回、この状態が判明した生徒さんも、私と一緒に弾いた時に音程を合わせることができないことで、この症状を見つけました。この状態の人がアンサンブルに加わると、かなりつらいことになる可能性が強いでしょう。協和した音程を、意図的に避けてしまうことになるからです。

この状態は、よく訓練された「ソリスト」にも起こります。普段、ソロを中心に活動しているプロがセカンドヴァイオリンに入った時、和音が全く合わなくなってしまうことがあるのです。もちろん、その違いをきちんと使い分けることができる演奏家もたくさんいますが。

余談ですが、この生徒さん、ヴィオラスペースを聞きにいって、小栗先生がソロの時とセカンドに回った時に、「完全に違うことをやっている」と、驚かれたそうです。その理由を、「セカンドに回ったので柔らかく弾いている」とだけ思ったそうですが、実は、音程の取り方にも大きな違いがあるのです。

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