柏木真樹 音楽スタジオ

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「天才」という言葉を聞いてどう思いますか。才能を持って生まれ、小さい頃から周りが驚く能力を発揮し大芸術家になっていく・・・そんな人を想像するでしょうか。音楽史上、モーツァルトなどの作曲家、多くの演奏家(現代ならみどりちゃんとか、龍君とか、ヴェンゲーロフとか)がそう評されてきました。では、「才能」は単なる遺伝子的な問題なのでしょうか。(その人の才能を見抜く、という点については次項)

こんな仮定をしても仕方ないのですが、例えばみどりちゃんが音楽に全く縁のない家庭にうまれたとします。小学校の4年生くらいでヴァイオリンを知り、その音にあこがれてヴァイオリンを習い始めます。さてこの「仮想みどりちゃん」は「天才的ヴァイオリニスト」になれるでしょうか。モーツァルトが音楽家の家ではなく、画家の家に生まれたとしましょう。それでも彼はわき上がってくる彼の思いを音符へ向けたでしょうか。

フランスには、「60にして初めて天才になる」という意味の格言があるそうです。(誰の言葉か知らないのですが、どなたかご存じでしたら教えてくださいませ。)これはある意味で至言だと思います。もちろん、60才という年齢に意味はないでしょう。しかし、その人の環境、努力、そして運といった全ての条件をみたしたときに芸術家として世間は「天才」を認めるのだ、という、悲しいが真理である点をついていると思います。事実、不遇の生涯を送りつつ、後世に天才の名を残した大芸術家はたくさんいます。ものを作る(音楽でも絵画でも料理でも、なんでも結構)場合、再現する(演奏家など)場合で、条件は異なりますが、「天才」という言葉の意味を考えさせられる格言ではあります。

「全ての芸術は模倣に始まる」という言葉をお聞きになったことがあると思います。これもきわめて意味のある言葉だと思います。「模倣」という言葉には、「真似」という表面 的な行動に表れる意味だけでなく、「あこがれ」や「尊敬」といった、先達の芸術を「追いかけ・追いつき・抜こうとする」後輩の思いが込められているのだと思います。

さて、ここまでの話を前提に、本題の「音楽教師の資質」に戻ります。

音楽に限らず芸術全般に言えることなのでしょうが、先生は生徒に「見本を示し」ます。それは、先生自身の表現であることもありますし、先人の作品である場合も、録音された音である場合もあるでしょう。まず第一の問題です。「先生は何故見本を示すのか」

さきほどの格言の「模倣」という言葉を単に「まね」と理解するなら、優れた先達の作品をまねすること自体に意味を見つけることも可能でしょう。また、先達の作品が「完成されたもの」であり、それを越えるものは存在しないのでしたら、まねをしようと努力することに意味はあるでしょう。しかし、芸術の分野でそのようなことはありません。ですから、「これが正しいもの」「完成された到達点」とばかりに見本を示すのは誤りだと思います。特に子どもに教える場合、見本を示すのは、その子どもの興味を喚起し、学習意欲を増すようなものを、「正しく」与えなければなりません。ですから、「見本をどのように示すのか」ということも重要な問題です。

子どもは、レコードに合わせて演奏したがることがよくあります。自分の子ども時代や私のまわりの学習者さんたちを見ていて、なぜレコードに合わせて演奏したがるのかを考えたことがありました。1)レコードのように格好良く演奏している気分になれる、または、自分が演奏家になったような心地よさを味わうことができる、2)レコードのテンポで演奏する練習になる、3)演奏家の真似をしたい、また、真似をすると上達すると思っている。まだまだ理由はあるでしょう。もちろん、子どもたちはこんなことを「理屈で」考えているわけではありません。さて、この「レコードに合わせて演奏する」ということは、はたして良いことでしょうか。画家志望生は、大画家の作品を模倣します。それと同じ?

私が、この「レコードと合わせる」ことに「正義」を見いだすとすれば、1)の理由のみです。あとはすべて逆効果 だと思います。

画家志望生が模倣するとき、彼はその作品を「穴があくほど」ながめます。そこに、「自分の目を通 す」という過程が存在します。これが実は決定的に重要なのです。大画家の作品のコピーをトレーシングペーパーの下に置いてなぞっても意味はないでしょう。音楽でも同じです。自分の耳を通す、という作業がどうしても必要なのです。この、「目を通すこと」「耳を通すこと」を忘れた訓練は、単なる「真似」にすぎません。そしてそれこそが、子どもの能力を奪っていくものなのです。このような訓練を重ねていくと、子どもは「自分で演奏することができない」ように育っていきます。もちろん、芸術に一番大切な「独創性」を作り出す力も生まれないでしょう。(独創性、については、別項をたてるつもりです。)

まさか、この世に、レコードに合わせて演奏することを推奨する先生が存在するとは思いませんが、そうとは知らずに、それに近いことを生徒に押しつけている先生の話はよく聞きます。例えば、一緒に演奏することが必要な場合もありますが、それに頼ることは恐ろしいことです。また、一つの考え方を「押しつける」ことも、この「模倣」と「物まね」の差を認識していない先生がよく陥る罠ですね。

今、学校の教科書が危機です。それは、子どもの成長過程で、この、「耳を使う」「目を使う」ことを奪っていく方向に、教科書が変化しているからです。成長過程の重要なファクターである学校教育で判断能力や思考力を養うことを放棄されてしまった子どもたちにとって、音楽を正しく学ぶことはとてもよいことだと思います。

音楽の技術を教える、という作業が個人対個人のものである、また、マニュアルが存在しない、ということを、ヴァイオリンのボウイングを例にとって説明します。

ヴァイオリンという楽器は、肉体的にいろいろな無理を要求します。左手は「ねじった」ような形を強いられますし、右手は「ひねった」形を要求される場合があります。子どもの頃からヴァイオリンを弾いていると、体の形がかなり変形します。昔私が腱鞘炎をやってしまったときに、整体の先生にかかったら、何にも説明していないのに、「あなた、ヴァイオリン弾きでしょ」と言われました。その先生に言わせると、音楽家、特に弦楽器奏者は、楽器の種類まで含めてすぐわかるそうです。それほど肉体的に「変形」を強いる楽器なんです。

さて、こういう楽器ですから、長い間「理想の持ち方」「理想のボウイング」を求めて、多くの人々が苦しんできました。弦楽器の物理的な原則から言うと、「弓が弦に垂直に交差した状態で、まっすぐ重みがかかる」ことが理想です。しかし、それを実現する持ち方で持ってしまうと、弓の半分も使えません。弓を全部使えないと言うことは、もちろん表現する可能性が著しく低下するわけですから、「肉体的に無理がない・・・可能な」持ち方と「楽器の物理的な構造に無理のないボウイング」との整合点を見いだすことは、とても大変な作業だったのです。

モダンヴァイオリン(注)のボウイングは、大きく分けて二つの流派がありました。一つは「ロシア」派、もう一つは「ベルギー」派です。(呼び方は何通 りかありますが、このさいどうでもよい。)この二つの流派には、決定的な違いがありました。基本的な差は、「手で音をコントロールする」のか、「弓と弦との関係を自然にすることで演奏効果 を上げるか」という違いです。前者は、ハイフェッツに代表される奏法で、日本のヴァイオリン教育も、主にこの流派の延長上にありました。(歴史的な背景を書くと長くなるので割愛しますが、ロシア・上海系のヴァイオリン教師とその弟子によって日本のヴァイオリン教師がたくさん育てれらたことに由来します。)後者は、グリュミオーなどが代表です。

実際の演奏を見ると、その差は一目瞭然です。前者は、手首を自由にコントロールし、弓を右手の左側に重心を取って持ちます。ですから小指、場合によっては薬指、中指までもが、弓から離れてしまうこともあります。後者は指が弓に「すいついて」いるように見えます。

どちらがよいか、ということをここで議論するつもりはありません。実際、現在は両方の利点を生かした独自のボウイングを持っている演奏家もたくさんいます。特に、ドイツの中堅・若手の研究を読むと、自分たちが背負ってきた「流派の重し」から自由になっている人たちがたくさんいます。

さて、ここで問題にするのは、「教師が教えるときにどんなボウイングを教えるか」ということです。

身長180センチ、体重90キロの人が弾くなら、ボウイングをあれこれ悩まない。なぜなら、「手が届く」し、「腕の重みが十分ある」からです。でも多くの人、特に日本人の女性は、腕の長さも十分ではないし、重みも足りません。ですから、「それでも演奏できる」ボウイングが必要です。また、大人になってから楽器を始めた人に対しては、「子どもが成長の過程で体の変形を伴って実現できる」ボウイングを教えることは、現実的ではありません。

多くのヴァイオリン教師は、「自分のメソッドで」教えようとします。子どもに対する場合は、かなりの確率で「なんとかなります」。しかし、よりよい方法を生徒と考える可能性はありません。これが大人に対する場合、悲劇を生みます。先生はおおかた子どもの頃から楽器を弾いてきた人です。ですから、大人の「できないこと」を理解する力が要求されます。しかし、先生自身のやりかたに固執してしまっては、生徒の「フィジカルな」要求すら満たすことはできません。

先生が「よい教師になる」道は、いくつかあります。一つは、「いろいろな方法を知る」ということです。自分が歩んできた流派にこだわらず、いろいろな奏法を先生自身が「勉強し」、生徒に合った方法をレッスンすることです。また、「生徒に合わせて」いろいろな方法を探る力が先生にあれば、あらたなシステムを生むことだって可能です。音が出るシステムは物理ですから、それに反しないように注意すれば、新しいシステムを構築することだって可能でしょう。

このような努力を放棄した先生に師事することは、はっきりいって「自殺行為」です。自分(ないしお子さん)の可能性をつみ取ってしまうことになる危険性があります。もちろん、他の楽器でも同じことが言えるでしょう。全ての子どもに同じエチュードを与える先生は、子どもの個性を殺してしまうでしょうし、肉体的にも無理を強いることになるでしょう。子どもにあった選曲、順序をいつも悩んでいる先生なら、生徒さんによってやることが違うはず。

私は、音楽は全人格を反映するものだと思っています。ですから、一人一人の生徒に合った教え方を考えることは、音楽教師の「最低の」条件だと思っているのです。

音楽を教える、楽器を教える、ということがどういうことなのか。とても大きな問題です。最近、ある先生にとても腹がたったので、以前から思っていることを書いてみる気になりました。

その先生は、芸大出身のヴァイオリンの先生です。生徒さんもたくさんいて、大にぎわい。縁あって、その先生のお弟子さんの一人を、何回かレッスンすることになりました。この生徒さんは、まじめに練習をするのですが、どうも「音楽する」ということに楽しみが感じられません。本当に楽しんでいないのか、楽しみを表に出さないのか、楽しみを表現することが下手なのか、まだわかりません。でも、とりあえず、「こうやって弾きたい」という欲求が見えるところには至っていません。

何事でも、初めは「模倣」が大切です。いろいろなものを「マネ」て、自分の感性を磨いていき、そして自分のスタイルを創っていきます。ただし、「模倣」はあくまで過程であって、それを「持つべき感性として押しつけては」なりません。それは、音楽に限らず、教師が一番してはいけないことだと思います。この「模倣」の段階にある生徒さんを教えるときは、先生はとても神経を使います。「こうして弾いてごらん」という「模倣」の例示をしつつ、その生徒が自分の個性を殺さないように、とても難しいバランスが必要です。

ある生徒に曲を選ぶときに、先生の資質が表れます。どれだけたくさんの曲を知っているか、その生徒がどのような技量 を持っているか、その生徒が一生懸命になれる物は何か、そして、その生徒の感性を磨くことのできる曲は何か、そういったことをすべて考えて、生徒に曲を「託し」ます。

その生徒さんが発表会用に与えられた曲は、タルティーニの「悪魔のトリル」でした。それを聞いて、「うーん、大変な曲をもらったなぁ」と思いました。恐らく、1,2楽章だろう、と思ったからです。

この曲がどのような難易度の物なのかわからない方のために、ちょっと乱暴な比較をします。難しいのは、2,4楽章です。1楽章が「三桁のかけ算」とすると、2楽章は「連立方程式」くらい、難しくなります。その生徒さんの技量 から、連立方程式にはかなり苦戦するだろうな、と思っていました。ところが・・・発表会の後で話をきいたら、なんと1,4楽章を弾かされた、というのです!!!先ほどの例であてはめると、4楽章は微分方程式くらいの難しさでしょうか(^ ^;;もちろん、音楽的な難しさは技術的な難しさに比例しませんが、そもそも連立方程式を習い始めた生徒に微分方程式の「試験」を果たすようなもの、ということには変わりありません。

先生がどういうつもりでこの生徒さんに曲を与えたのかはわかりません。しかし、先生もこの生徒さんの親も、「相性が悪い」と感じていたそうです。しかし、生徒と先生の相性ってなんだ?百歩譲って相性が悪いから教えにくいとしても、だから中学2年生の試験に微分方程式を出題するかぁ(^ ^;;

発表会のできは、もちろん「散々」だったそうです。ほとんど何を弾いているのかわからなかったらしい。当然でしょうね。

こんな先生は例外かもしれません。しかし、先生と生徒の「相性」ということは、よく耳にします。しかし、大人を教えるならともかく、子どもを教える先生にとって、「相性」という言葉はたんなる言い訳にしか聞こえません。

先生の資質は、発表会を見ればおおかたわかると思います。念を入れて、2回か3回、続けて聞いてみれば、ほぼ判断できます。

まず、生徒さんたちの多くが同じ弾き方をしている先生は見込みがありません。恐らく、自分が習った演奏法しか知らないか、それ以外の教え方に思いを寄せる柔軟性に欠けている先生です。生徒の個性(個性というのは、感性だけでなく、フィジカルな意味も含めます。)を勘案する力のない先生です。こういう先生についたら、「とっても幸運なことに、先生と同じ体格と筋肉と感性を持っている」生徒さん以外にとっては、音楽が苦痛になるでしょう。それも、生徒さんがまじめであればあるほど。

続けて聞いて、ある生徒さんだけが上手になっている先生も危ないと思います。「あの子はのびてるよね。でも他の子どもはあんまり上手くなってないわね。伸びる子どもがいるということは、先生はいいのに、他の子どもたちはだめねぇ。」これが落とし穴。優秀な子どもは、ある程度キャリアのある先生になら、誰についてもある程度伸びます。いっちゃ悪いけど、教えなくたってある程度は勝手に伸びる。それが、上手にならない子どもの側の責任になっている。これは本末転倒です。

この二つの例は、先生が「この子とは相性が悪い」といって「逃げる」典型例です。

リスナーのために、ちょっと違う角度で例を出します。パールマンとズッカーマンとチョン・ファ・キョンのヴァイオリンを聞いて、「やっぱりガラミアンはこういう演奏をしたんだなぁ」と想像がつくでしょうか。これが肝心。

私が敬愛してやまないヴァイオリンの先生の発表会は、本当に「見物」でした。誰一人として同じ弾き方をしていない(^ ^;;でも、みんな「おもいっきり」弾いていました。

最後に、「演奏している子どもたちが、本当に楽しそうに見える先生」は、きっと良い先生です

これも以前から書こうと思っていたことである。

「最初に何を見せるべきか・・日本の音楽教育の致命的勘違い」

 

オーケストラプレーヤーの間に、「音教オケ」という言葉があった。(今もあるかどうかは知らない)意味するところは、「子ども向けの音楽教室を専門にやるオーケストラ」ということである。ほとんどの場合「一発もの」で、継続的にやられているものでも、「メンツはその時によって違う」ことがほとんどだ。プロモーター(オケの中では人集めをする人を「インスペクター」と呼ぶところが多いようだが)が人集めをし、指揮者を決めて派遣する。練習は現地で本番直前だけ、ということが多い。若い頃僕も幾つかのオケに乗せてもらったことがあるが、桐朋のオケやN響のOBオケがその道では有名だった。(桐朋のオケは練習が一回だけあったと記憶している。)

また、自治体の運営するオケには、音楽教室が必ず付いている。例えば、東京都の運営する都響は、通常の有料演奏会以外に、東京文化会館や都内各地での音楽教室を行っている。そこでは、定期演奏会に登場する「有名な」指揮者ではなく、若手や「定期には登場できない」指揮者がタクトを持つ。

一方、今や世界の指揮界の頂点に立ったとも言えるサイモン・ラトルがバーミンガム市響の音楽監督だった頃、音楽教室(もちろん、こういう名前ではない。「×××のためのコンサート」という目的別の演奏会である。)に熱心だったことは有名だ。特に、ハンディキャップを持つ人たちのためのコンサート(耳の聞こえない人たちのためのコンサートなど)にも力を注いでいた。

さて、ここまでお読みになって、勘のいい人なら何が言いたいのかわかってしまったかもしれない。
日本の芸術系教育の致命的な勘違いがここにある。つまり、「最初だから適当なレヴェルのものを見せておけばよい」という考え方である。「音教オケ」は、はっきりいって格段にレヴェルの落ちる場合が多い。もちろん、練習がない(極端に少ない)というのも理由の一つだ。相手はどうせ子ども、そんなに一生懸命やることはないさ、という訳である。

ロンドンで「美術鑑賞の授業」に出会ったことがある。ここでは、「感性は教えるものではなく育てるもの」と教えていた。この話題にもまさにピッタリだ。彼らはこう考えている。「本当によいものを見せてこそ、好きになることもできるし興味を持つ可能性も増える。そして、本物だけが感性を育てるのだ」と。この考え方と日本の教育とを比べてみていただきたい。どちらが子どもたちのために、という視点を持った教育かは、一目瞭然だろう。

もう一点。音程の話である。

日本の音楽教師の「多く」が、音程をきちんと教えない。教えることができないのか、教える必要がないと思っているのかはわからないが、とにかく、教えない。ピアノのような固定音の楽器はともかく、ヴァイオリンでも、きちんと音程を教えることは極端に少ない。一体何故か?音程が良いことがどれほどよい音楽を創るか、考えるまでもないことである。(この話題は、別項をたてます)「初めは大体で良いのよ」という先生がほとんである。極端な話、「できるようになるまではピアノと一緒にスケールを練習しなさい」などと言う先生もいらっしゃる。こういう先生についてしまった生徒は、「本当に美しい音」を知ったときに愕然とする。自分が「耳」も鍛えてもらえず、微妙な音程のコントロールもできない、哀れなヴァイオリン弾きであることに気づくからである。

最初に見せるべきもの、それは「本物」である。

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