柏木真樹 音楽スタジオ

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これも以前から書こうと思っていたことである。

「最初に何を見せるべきか・・日本の音楽教育の致命的勘違い」

 

オーケストラプレーヤーの間に、「音教オケ」という言葉があった。(今もあるかどうかは知らない)意味するところは、「子ども向けの音楽教室を専門にやるオーケストラ」ということである。ほとんどの場合「一発もの」で、継続的にやられているものでも、「メンツはその時によって違う」ことがほとんどだ。プロモーター(オケの中では人集めをする人を「インスペクター」と呼ぶところが多いようだが)が人集めをし、指揮者を決めて派遣する。練習は現地で本番直前だけ、ということが多い。若い頃僕も幾つかのオケに乗せてもらったことがあるが、桐朋のオケやN響のOBオケがその道では有名だった。(桐朋のオケは練習が一回だけあったと記憶している。)

また、自治体の運営するオケには、音楽教室が必ず付いている。例えば、東京都の運営する都響は、通常の有料演奏会以外に、東京文化会館や都内各地での音楽教室を行っている。そこでは、定期演奏会に登場する「有名な」指揮者ではなく、若手や「定期には登場できない」指揮者がタクトを持つ。

一方、今や世界の指揮界の頂点に立ったとも言えるサイモン・ラトルがバーミンガム市響の音楽監督だった頃、音楽教室(もちろん、こういう名前ではない。「×××のためのコンサート」という目的別の演奏会である。)に熱心だったことは有名だ。特に、ハンディキャップを持つ人たちのためのコンサート(耳の聞こえない人たちのためのコンサートなど)にも力を注いでいた。

さて、ここまでお読みになって、勘のいい人なら何が言いたいのかわかってしまったかもしれない。
日本の芸術系教育の致命的な勘違いがここにある。つまり、「最初だから適当なレヴェルのものを見せておけばよい」という考え方である。「音教オケ」は、はっきりいって格段にレヴェルの落ちる場合が多い。もちろん、練習がない(極端に少ない)というのも理由の一つだ。相手はどうせ子ども、そんなに一生懸命やることはないさ、という訳である。

ロンドンで「美術鑑賞の授業」に出会ったことがある。ここでは、「感性は教えるものではなく育てるもの」と教えていた。この話題にもまさにピッタリだ。彼らはこう考えている。「本当によいものを見せてこそ、好きになることもできるし興味を持つ可能性も増える。そして、本物だけが感性を育てるのだ」と。この考え方と日本の教育とを比べてみていただきたい。どちらが子どもたちのために、という視点を持った教育かは、一目瞭然だろう。

もう一点。音程の話である。

日本の音楽教師の「多く」が、音程をきちんと教えない。教えることができないのか、教える必要がないと思っているのかはわからないが、とにかく、教えない。ピアノのような固定音の楽器はともかく、ヴァイオリンでも、きちんと音程を教えることは極端に少ない。一体何故か?音程が良いことがどれほどよい音楽を創るか、考えるまでもないことである。(この話題は、別項をたてます)「初めは大体で良いのよ」という先生がほとんである。極端な話、「できるようになるまではピアノと一緒にスケールを練習しなさい」などと言う先生もいらっしゃる。こういう先生についてしまった生徒は、「本当に美しい音」を知ったときに愕然とする。自分が「耳」も鍛えてもらえず、微妙な音程のコントロールもできない、哀れなヴァイオリン弾きであることに気づくからである。

最初に見せるべきもの、それは「本物」である。