柏木真樹 音楽スタジオ

トップページ > 音楽を教えるということ > ヴァイオリン教授法の必要性

ある人がこんなことを言っていたのを聞いたことがある。ちょっと過激な意見なのだが、顔をしかめないで聞いて欲しい。

「音大生って、毎日ヴァイオリンばっかり何時間も練習しているのに、どうしてそんなに上手くならない人がいるんだろう?」

この意見の真意は、「練習方法を考えれば、もっと伸びる可能性がある人が多いのではないか。多くの人が練習方法を間違っているのではないか」というところにある。練習している当人に「あまり上達しない」原因を求めているのだ。

これを聞いて、私は「教える側の問題も大きいのではないか」と考えてしまった。確かに「大学生にもなって自分で練習を工夫できないなんて論外。それは才能がないのと同じ」と言い切ってしまってもよいと思っている人も多いだろう。しかし、大きな問題が別のところにあるような気がしてならない。こんなことをずっと思い続けてきた。

私がそう思うようになったのには、いくつか原因がある。一つは、日本を代表する音楽大学を卒業した「プロ」が、先生として必ずしも優秀ではないことを知ったということがある。「音楽教師の資質」で、芸大出身のヴァイオリンの先生の話を例に出したが、プロとしてヴァイオリンを教えている先生の中にも決して「教える資質がある」とは言えない人が少なくない。

問題は、生徒が自分で考えることができないように育てられてしまった場合である。小さい頃からヴァイオリンを必死になって練習した。先生の言うことを全部信じて練習した。さて、それがその人にとって正しくなかった場合どうなるか・・・その生徒は、「才能がない」として除外されるか、体を痛めるか、精神を痛めるか・・・そんな例すら少なくないだろう。

なぜこんなことが起こるのか・・・私なりの結論は「日本の音大にまともな教授法の講座がない」ことも一因ではないかと思う。

音楽に限らないのだろうが、日本の大学の先生は、その大学で「順調に出世する」か、「目立った功績があった」場合に選ばれることがほとんどだ。音大の先生だって、指導法が優れているかどうかではなく演奏家としての実績で選ばれることが多い。芸大の先生の中にも、「自分は教えることが嫌いだ」と公言している人も実際にいる。

確かに、演奏家として一流のものを持っている人に習うことは意味があることだ。しかし、その人を頂点にして、みんなが「一流と同じベクトル」で音楽を教えてはいないだろうか。演奏家になれなかったというコンプレックスを持って(もちろん、自分も含めてである)、ヒエラルキーをなすかのような状況に陥っていないだろうか。それは、「教えることは演奏家として活動するより下のこと」という意識が強く存在しているからだろう。

もちろん、これは日本の社会全体に言えることだ。長島茂雄が名監督だと思う人はいないだろう。政治家の息子が政治家の資質を持っているとは言えないはずだ。しかし、日本人はそれを唯々諾々として受け入れてきた。音楽の世界だって例外ではない。

先生を変わったことがある人ならすぐに理解してもらえると思うのだが、「ちゃんとしたこと習ってなかったわねぇ」と言ってボウイングをいじくり回す先生は多くても、「なぜそのように教えたのか」を理解しようとして、生徒にあった奏法を考える先生は恐ろしく少ない。結果的に、以前のものに外側だけ違うものを付け加えていって・・・結果として、一貫性のない、体の使い方が滅茶苦茶な奏法を「あみ出して」しまう。最近、こんな例に3つほど立て続けて出くわした。深刻なのは、本人がそのことに気づかずに、自分をダメだと責めてしまうことだ。

教えるということは易しいことではない。教職課程で、法学や憲法を必修にして、肝心の教授法をまともに教えないのはどういうことだろうと思う。不思議の国、ニッポンですね。