柏木真樹 音楽スタジオ

トップページ > レイトスターターのためのヴァイオリン講座 > 〈 講座06 〉レッスンの必要性と先生の選び方

さて、実際にヴァイオリンを始めようとします。楽器を買って、教則本を買って・・・ちょっと待ってください。ヴァイオリンを弾くために、レッスンは必要不可欠でしょうか。また、そうであるならば、どのような先生が良いのでしょうか。(実は、このテーマは「大人になって始める楽器」にかなり詳しく書きました。書いてから10年たって、私も経験値が上がり、いろいろと書き足りないことも出てきたのです。ですから、この章は、この「大人になって始める楽器」の項目のヴァイオリン向け改訂版という位置づけです「大人になって始める楽器」から転載した文章も多いです。)

◎ レッスンでは何が行われるのか ◎

大人になるまで、いわゆる「正規の」教育や受験産業などしか経験のない人にとっては、「レッスン」というものが想像がつかないかもしれません。ここでは、一体「レッスン」というものはどのようなものかということを書いてみようと思います。

楽器のスキルや音楽を学ぶためには、いろいろな手段が考えられます。個人的に教えている人のところへ行って、その楽器について、また音楽についてのいわば「大先輩」である先生のところで学ぶ、ということも一つの手段です。また、「×××音楽教室」などと銘打った教室に通 うことも一つの方法でしょう。ここでは問題にしませんが、「レッスンヴィデオ」などと銘打ったものもあるようです。レッスンについて、少し説明してみましょう。

楽器を演奏するための技術などを習得する

どなたも一番始めに思うことは、「楽器を演奏する技術を手に入れる」ということではないでしょうか。レッスンでも当然このことが大きなテーマです。特に、始めて楽器を手にしたとき、持ち方(構え方)、指の動かし方などなど、わからないことだらけです。

まず楽器を持つ。

どんな楽器でも、「合理的な」楽器の持ち方があります。ここで「合理的」という意味は、「良い音がして」「体に無理がなく」「運動性能が優れている」ということが基本になります。と同時に、これが結構やっかいです。

プロやベテランのアマチュアが演奏している姿やレッスン用のヴィデオなどを見ると、だいたいどのように持っているか、ということは見えますね。それをまねしてみます。どうもうまくいきません。

楽器による差はもちろんあります。私が自分でレッスンについた経験のある楽器で言えば、フルートは比較的わかりやすかったです。ヴァイオリンはとてもそうはいきません。(だからフルートがやさしい、といっているのではありません。人の格好を見て持ち方を理解しやすい、という事実だけを比較しています。)

合理的な持ち方をしようと思うと、いろいろな条件を満たしていなければなりません。力が入っていては運動性能が落ちますし、音もよくでません。また楽器を保持することで疲れてしまいます。こういういろいろなことを考えながら、先生は「持ち方」を教えてくれるでしょう。

そして音を出す。

管楽器の場合、口の中が大問題です。外からは見えませんしね。口の形、くちびるの使い方、舌。さらに呼吸法。そういったもろもろを、先生はわかりやすく、効率よく、教えてくれるでしょう。弦楽器の場合は、弓の使い方が問題です。細かく書き始めると大変なのでここでは触れませんが、手の形、大きさ、腕の長さ、関節の固さ・・・などによって、なるべく音を出すために合理的な持ち方、手の使い方を作っていこうとするはずです。

そして、いわゆる「技術」

レッスンは、実際に指や口を使っていろいろな音を出す、さまざまな曲に対応できるような「奏法」をマスターしていく。そういう「奏法」をみせてもらえる場でもあります。同じ音を出すのでも、いろいろな出し方がある場合もあります。なめらかな音がほしいところ、はっきりした音がほしいところ、強い音、弱い音。いろいろな音を出すためには、いろいろな技術を使います。それらをレッスンの場で「知り」「理解し」て、練習します。

これらのことを、実際にやらせてみたり、お手本を示したり、場合によっては「理屈」を説明しながら、生徒が理解し技術を習得できるようにする場所がレッスンです。

練習法を伝える・考える

楽器の演奏をするための技術を身につけるためには、レッスンの時間だけでなく、レッスンとレッスンとの間の時間をどう使うか、ということが大問題です。そのあいだ、アドヴァイスを与えてくれる人がいないところで練習をしなくてはなりません。そのためにどうしたらよいか、ということを一緒に考え、また練習法のヒントを与えてくれる場所がレッスンです。

先生は、いろいろな練習曲を与えてくれるはずです。また、曲以外にも、ただ長い音を出す(ロングトーン)ことや、音階(スケール)などの課題をだされるでしょう。それを自分でこなさなくてはなりません。

レッスンとレッスンの間、もし間違った練習をしてしまっては、せっかくの時間が無駄 になるばかりでなく、悪い癖がついてしまうこともあります。ですから、そういう回り道を少なくするために、先生は「なぜこの練習をするのか」「何を考えて練習しなくてはならないか」ということをおっしゃるでしょう。そのことをよく理解して、練習の時間が効率よく使えるようにしたいですね。ですから、レッスンで課題を与えられたら、たんにそれを繰り返し練習するだけではなく、頭を使って「何のために」「なぜ」その練習をしているのか忘れないようにすべきです。そうすると、レッスンが有効に使えます。

また、その人にあった練習法を一緒に考える場でもあります。

ほとんどの先生は、ご自分にとっていちばんしっくりくる練習法を持っています。しかし、その練習法がすべての人にあてはまるかどうかはわかりません。特に大人になってから楽器を始めた場合、体に無理な負担がかかって痛めてしまうこともあるかもしれません。ですから、先生にとっても新しい生徒がくると、「この生徒の場合はどのような練習がよいか」ということを「実験」してみる場でもあるのです。場合によっては「ああやってごらん」「こうやってごらん」と、いろいろな方法を試されるかもしれません。そうしたら、その場でその意味を理解して、自分に一番合った練習法を見つけていく、そして、その練習が合理的であるかどうかを判断してもらう。レッスンとはそういう場でもあります。

先生は一番わかってもらえる「耳」です

レッスンの意味で、どんなに強調しても強調しすぎでないものがこれです。

特に大人になってから楽器を始めた場合、自分の出している音を正確に判断することができるようになるまでにある程度の時間がかかる場合が多いでしょう。そんなときに、出ている音からいろいろなことを判断してもらえる、ということが、レッスンの最大の効用です。

音の間違い、音程やリズムなどのように、比較的初期の段階で判断できるようになる可能性が高い要素もあります。これにももちろん個人差がありますが、人によっては「音程とリズムならすぐにでも判断できる」という人も少なくないかもしれません。しかし、レッスンで先生に判断してもらえる要素は、こういったものだけではありません。音質から「右手に余計な力が入っている」とか、「手首が固い」「息のスピードが遅い」「唇の形がおかしい」などということなどもわかります。

音楽を聴くことには慣れていても、自分の出した音が実際にどのようなものか、ということを判断することは別 の次元の問題が生じることも多く、なかなか正しく判断できません。先生は、レッスンで生徒が弾いている音を聞いて判断し、それを生徒に伝えることができます。いわば、「医者」のような役割を果 たすことができるのです。(先生には知識や経験がないと「誤診」してしまうこともあるかもしれません。だから、先生の選び方も重要なポイントです。)自己判断ができるようになるまで、先生の医者としての役割は、とても重要なものです。そして、何か問題が発見されれば、それに合った処方箋を書いて、生徒に示すことができるわけです。

そして、レッスンが進んでくると、その耳がいつのまにか生徒の側にもついてくるのです。

音楽的なこと

これは、その生徒の音楽的経験値、理解度、先生の状態、によって全く異なる部分です。ですから、あくまで「理想的な」もの、と考えてください。

楽譜に書いてある音を再現することが、楽器を演奏する作業です。楽譜を見てすべての人が同じように感じるのであれば、演奏は一通 りになるはずですね。しかし現実には、テンポにしても強弱にしてもフレーズ(音のつながり、旋律の感じ方)にしても千差万別 です。なぜこういうことが起きるのかというと、「考え方・感じ方の差」とでも言ってしまうしかありません。楽譜に書いてあることの意味をどうとらえるか、というだけで、大論争がおきます。しかし、この「論争」には、ある前提があります。その前提が「音楽的な常識」です。もちろん、一般 に信じられているものがすべて「音楽的な常識」ではありません。「常識とは何か」ということですら、論争になります。これを言い出すとここでは収拾がつかなくなりますから、「演奏する場合に知っておかなくてはならない音楽上の約束などがある」というくらいに理解してください。レッスンでは、そういった「必要なもの」を提示され、自分のものにしていく作業が行われます。

その上で「表現」ということがテーマになります。ある音楽をどのように感じるか、また、感じていることと実際にでている音が本当に一致しているのか、といったことを確認することができます。また、「いろいろな感じ方を知ることができる」ことも、レッスンの重要なポイントです。ある表現が先生の感じ方と違う場合、先生は、何通 りもの表現を見せてくれるかもしれません。そしてその中に、自分が「思いもつかなかった」すばらしいものがあるかもしれません。そのような表現を知り、自分の表現を作っていく作業をするために、レッスンはとても役に立つでしょう。また、「あの人のように演奏したいのだけどどうしてよいかわからない」という場合でも、その方法を見せてくれるかもしれません。そのような経験をレッスンの場で積んで、次第に自分の表現を獲得していくことができるようになるでしょう。

◎ レッスンは必要不可欠か? ◎

結論から書くと、「効率よく上達するためには、個人レッスンはどうしても必要」だと思います。

楽器を演奏する、ということは、あくまで個人的な作業です。合奏などをすることも、個人の作業の積み重ねでしかありえません。ですから、個人的な練習、上達が、どうしても必要になると思います。また、大人から始める人には、 「オーケストラにまざりたい」「アンサンブルをしたい」「あの曲が弾きたい」などといったような「目標」「希望」があることが多いのではないでしょうか。年齢や練習時間といった「時間の制約」もあります。ですから、なるべく効率よく上達することが必要になるでしょう。試行錯誤する余裕が十分にあるのならともかく、それがない状態での独習はかなりしんどいものだと思います。

テキストやヴィデオを使って独習は不可能か?

楽器を演奏すると言うことは、非常に個人差の大きなものです。私はヴァイオリンを弾いていますが、いままでついた先生は、全員、全く違うボウイングをしていらっしゃいました。楽器の技術を学ぶということは、「よい音をだすための武器を手に入れる」ということだと思います。その武器は、体格や体の柔軟性によっても、全く異なります。ですから、目的のためにもっとも適した武器を、生徒と先生が共同作業で見つけていくことが、技術の習得には欠かせないと考えます。先生は、それまでの経験によって、いろいろな可能性を提示することができるでしょう。その中から最も合うものを探し出して行く作業ができることこそ、特に大人になって始める(すなわち、自分で考えることができる)人には理想ではないでしょうか。先生と呼ばれている人は、おおかた小さい頃から楽器を練習してきています。ですから、自分のたどってきた道筋があります。そして、それに加えて、いろいろな奏法や教え方を学んできたはずです。ですから、「こう弾くべき」という、自分の道筋を示すだけでなく、その欠点や他の奏法などに対して、いろいろな見解をもっているでしょう。ですから、それを利用しない手はないと思うのです。つけ加えれば、こういうことを理解している先生につくことが必要条件です。

テキストやヴィデオは、反応してくれませんし、修正しながら教えることはできません。またまったくの独習は、かなりのロスが生じるとも思います。また、見かけ通りではない場合があります。見た形だけをまねしても、はたして「合理的な」筋肉を使い、「理にかなった」ことをしているかどうかは、よくわからないことが多いです。レッスンの時に、先生が生徒に体をさわらせることがよくあります。それは、楽器を演奏しているときに先生の使っている筋肉を「実感」させるためです。そんなことは、ヴェデオではできませんね。当たり前の話ですが、人は過去の遺産を学ぶことで時間を節約し、進歩することができました。それは、楽器を覚えることについても、全く同じだと思います。

現代のようにインターネットが普及すると、演奏技術や練習法の情報が溢れています。もちろん、多くの情報を得ることができることはよいことですが、その情報によって混乱を来してしまっては意味がありません。ですから、情報を十分に活用するためにも、基本的なところで情報をチェックできる場所が必要だと思います。(いろいろな楽器を習っている人たちのレッスン日誌があちこちにありますが、習っている側ではなくて、教えている側こそが読んだ方がよいのかもしれません。実際、とても興味深い話がたくさん出てきます。)

集団の中で上達することは可能か

「個人レッスンなんかしなくても、アンサンブルをしながらだって十分上達できるのではないか。」と思われる方もいらっしゃるかもわかりません。これについても、「かなり困難でしょう」といわざるをえません。

もちろん、アンサンブルの能力というものが楽器を演奏することと無関係に存在するわけではありません。しかし、一緒に音を出す、という作業は、単に一人で音を出す作業とは違った意味があります。「一人で練習しているときは弾けてたのに、オーケストラにきて弾いてみたら全く弾けない(; ;) なんで? 練習法がわるいのかしら。」なんていう質問を、非常によく受けます。それは、「当たり前」なんです。

他の人と一緒に演奏するためには、普段一人で音を出しているときと違った神経が盛んに働いています。「他の人の音を聞く」「他の人のテンポを感じる」「指揮者を見る」 「他の人の演奏している姿を見る」「呼吸を感じる」「自分の音と他の人の音を比較する」「自分のテンポとまわりのそれを比べる」「修正する」等々・・・意識していなくても、自然に五感に感じる部分は働いているのです。ということは・・・自分が演奏することに使われている神経は、一人で音を出すときよりはるかに少なくなってしまいます。

どんな楽器でも、正しく音程やリズムをとらえることには大変な神経が必要です。(これは、子どもの頃から楽器になじんでいる人でもいっしょです)他の人といっしょだと、どうしても自分の音を出す作業がおろそかになります。

また、自分の「身丈にあった」演奏ができない可能性がある、ということも問題です。まだ技術のない部分を「そろえるために」見よう見まねでやってみて、基本的な部分が壊れてしまう危険性すらあります。

オーケストラやアンサンブルをしながら上達する部分というのは、とても限られた部分です。または、「普段弾く時間がないから、せめてオーケストラの時だけは弾いておかないと・・・」ということもあるかもしれません。しかし、それ以外にいろいろな影響もあるでしょうし、個人的な技量 がその場で上がるということは、あまり期待しない方がいいでしょう。

私は、以前ならっていた先生に、「曲を弾くことや合奏をすることは、技術の消費。レッスンや個人練習は技術の蓄積」と言われたことがありました。もちろん、それだけで言えるほど単純ではありませんが、ある側面をあらわした言葉だと思います。ただ、ここまで述べてきたことは、あくまで「普通 の人」についてです。

中には、レッスンもいらない、個人練習もいらない、とにかく弾いていれば弾けるようになっていく、という人もいるにはいます。現に、私のまわりにもそのような恵まれた人がいます。何が違うのかよくわかりませんが、おそらく 「集中力」や「運動・反射」能力が他の人より圧倒的に優れているのだろうと思います。

◎ レイトスターターにとっての特殊な要素 ◎

レッスンを職業にしている先生は、少なくとも10人以上、場合によっては50人を越える生徒を抱えています。この生徒の多くは子ども、ないし子どもから始めた人たちです。

大人になってから楽器を始めることは、20年前にはごく一部の「変わり者」の行動でした。20うん年前私がいた大学オケでは、ヴァイオリンの「初心者」は、私の学年には15人中一人しかいませんでした。社会人になってから楽器を始めることはそれ以上にハードルが高く、始めたとしてもヴァイオリンなんて想像もつかない、という人がほとんどでした。

大人になってから楽器を始める人が急速に増えたのは、90年代に入ってからだろうと思います。バブルがはじけ、物質的な満足より自分が本当に楽しめるものを求めることが「あたりまえ」になってきたことも、その一因かもしれません。パソコン通信やインターネットの普及が、そうした「自分が満足できる楽しみを見つけたい」と思っている層にとって、強い追い風になったことも否定できないでしょう。

ということは、教える側にとっても「大人から始める人を教えること」については「レイトスターター」なんです。経験も知識もないと思った方が良いかもしれません。もちろん、こういう状況はもう5年もすれば劇的に変化するとは思いますが、現状ではまだまだ「どうやって大人を教えるのか」ということは手探りの状態なのです。

そのことは、ヴァイオリンのレイトスターターの多くが、その先生が子どもに使っている教材と同じものを与えられていることでもわかります。

今使われている教材の多くは、本来、「ひょっとしたら将来プロの演奏家になるかもしれない」子どもを念頭に置いて書かれたものです。ヴァイオリンの演奏に必要な技術を順にならべて、「これをすべて修得したらプロになれます」という意識で作られているのです。ある意味では「情け容赦ない」ものであり、またある部分は「大人にとって全く必要がない」こともありうるのです。もちろん、そんなことはレッスンを受ける側には判断しようがありません。教える側が勉強しなければならないことなのです。

ヴァイオリン奏法の教授法は、(もちろんヴァイオリンに限った話ではありませんが)多くの先生の体験やレッスンを受けた人たちの、いわば「サンプル」の上に成り立っています。大人になってから楽器(特にヴァイオリン)を始める人たちがどんなことを苦労するのか、どんなレッスンが効率的なのか、ということを語れるほどサンプルをもっている先生はあまりいないのが現状です。だから、先生のためにも、わからないこと、苦労する部分などははっきりと伝えて欲しいと思います。先生を鍛えることになりますから。

もう一つ。

レイトスターターのレッスンは、レッスンの時間も「訓練の場になっている」ことが必須です。特に「音感を鍛える」ことについては、レッスンの時間しかできないことがたくさんあるのです。僕も初めはこれを理解できていませんでした。だから練習不足だと、「今日はやること無いね。また来週やりましょう。」と言って追い返してしまったこともありました。しかしそれは、「子どもの頃から楽器に十分慣れ親しんできた大人に対しての対処」です。今、そのことはとても反省しています。基本的に、レッスンとは「レッスンとレッスンの間にどれだけ効率よく練習できるか」ということを模索する場です。練習はあくまで家でするものだ、という「伝統的なレッスン観」にしばられていたせいであるとも言えるでしょう。

真剣に上達したいと願っているレイトスターターは、こういったことを理解してレッスンに行くべきだ、と私は考えています。子どもと違って自分の要求を伝える能力があるわけですから、それを上手に利用してレッスンを有効な場にすべきでしょう。

◎ レッスンの形態について ◎

先生の考えていることを判断する材料の一つに、レッスンの形態があります。何を求めるかによって自分のスタイルにあったものを見つける必要があります。

レッスンにはいくつかの形態があります。

  • 1)個人レッスン。レッスン代は一回ずつ。時間は原則一時間かそれ以上。場合によって伸縮あり。
  • 2)個人レッスン。レッスン代は一回ずつ。時間は進度によって30分や一時間など。時間の延長はほとんど考えられない。
  • 3)個人レッスン。月謝制。30分ならいくら、一時間ならいくら、という決め方。
  • 4)いわゆる「音楽教室」などの個人レッスン。
  • 5)グループレッスン

グループレッスンと個人レッスンの差について考えてみます。

楽器のレッスンは本来一対一であるべきだと思います。それは、指導を受ける側の一人一人の差が大きいからです。同じ30分のレッスンでも、一人当たりの効果 は人数の自乗に反比例するといっても言い過ぎではないのではないかと思っています。技術的な指導もさることながら、最大の理由は、「音感を鍛える効果 が全く期待できない」ことにあります。

ではなぜこんなにグループレッスンが繁盛しているのでしょうか。はっきり言うと「教える側の経済的事情」だろうと思います。(こんなことを言ってはみもふたもありませんが・・・)「ヴァイオリンを上達するためにはグループレッスンの方が相応しい」と考えている先生は、恐らくグループレッスンを実際にやっていらっしゃる先生の中にも一人もいないでしょう。しかし、「繁盛する」というのは、受け手側にもメリットがあるようです。

いろいろな人の話や、HPの書き込みなどを拝見していると、「楽しい」というのがその大きなメリットのようです。つまり、ヴァイオリンの上達よりその場の楽しさを楽しみたい、という方には、グループレッスンの方が入りやすいのだろうと思います。また、一対一のレッスンでは息が詰まる、という感覚をお持ちの方もいらっしゃるようで、そんな場合には有効な方法なのかもしれません。しかし、ヴァイオリンの上達のためには決して誉められたスタイルではありません。

では、個人レッスンをなさっている先生ならどれでも同じなのでしょうか。

レッスン費用や時間配分だけでは、その先生の善し悪しはわかりません。しかし、いくつかのヒントはあります。

1) レッスンが、必ず先生自身で、1対1でおこなわれるか。

まず、第一点目です。(この話の前提として、「レッスンについて効率よく上達したい」「自分の表現がしたい」という要求があるものと考えて下さい。「なんとなく、グループで楽しみながらレッスンを続けたい」という可能性を否定するものでもありませんし、その場合は、これから書くことは少々的外れになると思います。)

私は、いわゆる「マニュアルを持った」音楽教室に通ったことはありません。しかし、自分自身の経験から言っても、先生ご自身が全てのレッスンをするとは限らないことがあります。いわゆる、「代稽古」ですね。私が以前いたところでは、高校生以上で比較的進度の高い生徒が、小さい生徒を代稽古する習慣がありました。私もよくやらされましたが、そのころは、全く不思議には思いませんでした。教える側にとっては、大変勉強になりますし、自分も教えることが好きだったのでしょう。勿論、レッスン代は先生のところに入りますが、自分としては、修行の一環だと思っていました。しかし、この年になって考えてみると、ものすごく申し訳ないことをしていた、と反省しています。教わる方にとっては、とんでもないことですよね。私が、その先生のところをやめることになったきっかけの一つに、このことがありました。確かに、進んでいるわけですから、教えることはたくさんあります。しかし、学習途上の、しかも教える経験のない生徒についた方はたまったものではないでしょう。

もちろん、先生がいる前でする代稽古は、この限りではありません。問題が生じたときに先生もいらっしゃるわけです。

先生が、「教える側」の生徒を鍛えるためにこのようなレッスンを組むことは時々あります。教える側の生徒にとって、これほどすばらしい体験はありません。

また、特に忙しい演奏家についた場合には、演奏旅行などで空いてしまう間レッスンを代行する人が必要である場合ももちろんあると思います。しかし、基本的には、自分の要求を知ってくれている先生が直接教えることが前提であるはずです。

また、ある教室では、「グレードが同じ先生なら代行しても不自然ではない」といったことをおっしゃるかたもいらっしゃいました。これも、とても不思議な話だと思います。

レッスンという作業は、あくまで一対一のものであるはずです。もちろん、アンサンブルの練習とか、人と一緒にやることで得ることもたくさんありますが、楽器を演奏すると言うことが、個人の作業の上に成り立つ以上、複数の生徒を同時に教えたり、意味なく先生が変わることは、よいことだとは思いません。(勿論、いろいろな先生につくメリットとは別の問題です。)

ピアノやエレクトーンをグループでレッスンしているところがあるそうですが、そこでなされることは、「一緒に演奏する」という楽しみを得ること以外は、「ヴィデオを見たり」「マニュアルを読んだり」する作業と決定的に異なるはずの個人レッスンを、堕落したものにしているとしか思えません。(くりかえしになりますが、そういうレッスンを要求している人を否定しているのではありません。ここで話題にしているのは、「大人になってから始めたけれども、できるだけ上達して楽しみたい」と考えている人たちに対してのレッスンの形態の話です。)

09/10/15付記)ここに書かれていることは今でも「正しい」と思いますが、私はここ数年、アシスタントの先生と一緒にレッスンをしています。ただし、このアシスタントの先生は、私の意図と練習法を学んだ上で、私が立てた方針の上で教えています。アシスタントを使うことにはいろいろな意味があり、利点もあることが最近は感じられるようになりました。それは「複数の見方を知る」ということにまとめられます。もちろん、方針がぶれてしまっては生徒が混乱してしまいますから、その点については十分に注意が必要です。

2) 時間に若干なりとも柔軟性があるか

時間が完全に固定されているものも考えものです。特に、一回30分やそこらの時間しかなく、それがかたまってしまっているのも、教える側からみると不思議です。生徒の進行状況や、必要なことによって、レッスンに時間がかかることもあるでしょう。それをフォローできないようでは、効果 がかなり減ってしまうのではないでしょうか。「こんどはちょっと時間を長くとりましょうね」という柔軟性があるかどうか、ということは、先生の側の姿勢を示すバロメーターになると思います。私の知り合いで、いわゆる「教室」で教えている先生がいますが、教室では規定の時間以上は教えられないので、不足したら、家まで来てもらって追加のレッスンをしている、と言っている人がいます。こういう姿勢が、教える側の「当然の」ことだと思っていましたが、現実にはそうでもないようです。

生徒によってかかる時間が違う、ということもあるはずです。同じことを何回かいっしょにやらないと覚えてくれないこともあるでしょう。特に大人であれば、一度説明しただけで、自分で工夫してこなしてくる人もいると思います。そういういろいろな生徒を、「一回何分」という区切った形でレッスンができるか、という問題が生じるはずです。

時間が足りないときには、追加でレッスンをしていただけますか、ということを先生に尋ねても、けっしてばちは当たらないと思います。

3)教材がいつ、誰に対しても同じだったりしないだろうか

レイトスターターの多くが、鈴木や篠崎の教則本を使っているようです。これらの教則本はとても良く書かれており、子どもがヴァイオリンを始める場合にとてもスムースに進むことが多いようです。しかし、大人に一律に教材を与えている先生はちょっと考え物かもしれません。

多くの場合、仕事や家庭を持っているレイトスターターは、練習する時間を定期的に確保することができません。また、同じ練習でも、子どもよりずっと早く理解し、修得できるものもあるのです。特に、子どもは「再現性」をつけることが大変ですが、大人は「頭で理解していれば」同じ作業を何回もしなくてすむことがあります。もちろん、体の構造上、子どもよりたくさんの練習をしなければならないこともあります。

そういった現実を無視して、子どもを想定した教材だけを一律に与えて指導している先生は、かなり問題があると思って間違いありません。結果 として上手になったとしても、時間や労力のロスが大きすぎるからです。

◎ 先生の選び方 ◎

楽器の先生を見つけることは、東京や大阪などの都会では、現在ではさほど難しいことではないかもしれません。町には音楽教室の看板があふれ、電話帳を見ると、結構な数のそういった教室の案内が載っています。それでは、さあ楽器を始めよう、レッスンについてみよう、と思ったときに、はたしてどうやって先生をきめたらよいのでしょうか。一番の近道、贅沢な方法と言えば、演奏が気に入った人のところへ押し掛けて「弟子にしてください」とお願いすることでしょう。しかし多くの場合、演奏家がレッスンを見てくれるためには、いろいろな条件・制約があります。楽器を始めたばかりの人、特に大人になってから楽器を始める人をみない先生も少なくありません。

それぞれの先生には、考え方・経験などがあり、それはまったく異なるものです。また演奏だけでなく「教えること」という要素もあります。ですから、どんな先生を選ぶか、によって、レッスンの効率や得られるものが全く違ってきてしまいます。簡単に言ってしまえば、「個人の個体差をよく理解しそれに応じた教え方ができ」「何を目標にしているか・何ができるかということを生徒と分かち合い理解し合う」「よい耳を持った」先生が理想だと思います。ただ、そういう先生に巡り会うことはとても「幸運」なことです。また、ある先生がいったいどういう人なのか、ということを知ることも、結構たいへんなことです。しかし、せっかくのレッスンを無駄 にしないためにも、なるべく自分に合ったよい先生をみつけたいものです。

先生に希望を伝えてみよう。大人としてレッスンをしてもらえるかどうかを判断することが必要。

まず大切なことは、レッスンを始める前に先生に希望をはっきり伝えることです。それには、いくつかの意味があります。受け手を大人として扱ってくれるだろうかということを判断することが必要だ、と思うからです。

多くの楽器の教師は、子どもの頃から楽器をやって来た人です。また、生徒の多くは、子どもや学生です。そう行った人達を教えることと大人を教えるとには、いろいろな違いがあります。

まず、身体機能の問題です。

子どもの頃から楽器を始めると、体が楽器を演奏するのに適したように変化しながら成長します。大人になって初めて楽器を持つ人には、そういったアドヴァンテージがありません。子どもから始めた人は、そうではない人とかなり異なる筋肉や体形をしています。繰り返しの運動をすることによって、形ができてくるのでしょう。ですから、正しい形(といっても、正しい形は決して一つではありません)で訓練を続けていれば、まったく何もやらないよりも有利な体になります。大人になってから楽器を始める場合、この有利さがないだけでなく、「体が出来てしまっている」ために、体が固い、邪魔な筋肉などがついている、といったこともあります。ですから、それを理解して訓練しなければ、効率が悪いだけではなく、体をいためたりすることもあります。

具体的に書いてしまうと、楽器の持ち方、弓の持ち方すらも違う可能性がある(必要性がある)と思います。

まず、楽器の持ち方です。問題になるのは、左手をどこまで体の内側に入れられるか、ということです。関節や筋肉の柔軟性によっても異なります。(私が教えた例では、バストが邪魔で左手を入れられない、という女性もいらっしゃいました。)それによって、楽器を構える位 置がもちろん違ってくるはずです。左手の柔軟性を判断しないで楽器を構えることを覚えてしまうと、いつまでたっても手が指板の方を向かない場合もあります。(これで苦しんでいる人、意外と多いようです。)

次に弓です。特に問題になるのは、手首の柔軟性と腕の長さの比でしょうか。これを理解しないと、かなり辛いことになります。特に体の小さい女性が弾く場合、手首の柔軟性を考えないで弓を持たせると、いつまでたっても弓先が使えなかったり、弓を弦の方に「押し込んで」しまったりします。

そして、目に見えない筋肉です。これが本当にやっかいです。

先生は「自然に筋肉が使えるようになる」経験をしていますから、「練習すれば当然そうなるはずだ」と思っています。しかし、大人になって筋肉が出来上がっていると、本来ヴァイオリンで使うべき筋肉以外を使って、同じような効果 を得られる動きをすることができてしまうことがあります。見た目に判断が付きにくいので、これで躓いた場合、先生も生徒もかなり苦労します。特に「ボウイング筋」が未発達の場合、弓を早く動かすスピードと初速に、子どもから始めた人との間に著しい差ができてしまいます。私が教えている生徒さんでも、とても器用で練習もきちんとなさるのに、「弓が早く動かなかった」人がいます。長い間他の先生についていたのですが、その原因がわからなかったようです。

教える側がこういった「個体差」を認識できるかどうかは、レッスンを受ける側の進度や「限界」にてきめんに影響します。「大人として扱えるか」ということは、体の機能にとっても大変大きなポイントなのです。

子どもの場合は、先生のたどった道筋をたどれば、ある程度の所までは進めると思います。ですが、体が出来てしまった大人を教えるには、先生の方が自分と違うからだを持った生徒に対して適切なアドヴァイスができるかどうか、ということが、重要な要素となるでしょう。 また、体の状態が子どもと違うことをどのように理解しているか、ということも重要です。「どうせ大人になって体ができてからやっても上手にはならないから、適当に」などと考えてしまっていては、その先生がいくら立派な技術や理論を持っていても役に立ちません。

次に、頭と体の問題です。

大人になってから楽器を始める人にとっての大きな武器は、「頭を使うことを知っている」ことです。フォームや練習法を教わるだけではなく、その目的を良く理解することが出来れば、自分で考えて矯正したり練習方法を工夫したりすることが出来るわけです。ですから、それを理解している先生のレッスンでなければ、やはり効率の悪いものになるでしょう。説明できるものは説明して、よく納得してもらった上でレッスンを続けなければ、価値が半減します。

生徒に対して説明できる言葉を持っているかどうか、ということは、とても重要な点です。何も考えないでただ楽器を演奏してきた先生では、その体験を言葉にして伝えることは出来ないでしょう。ですが、御自分も苦労され、いろいろな奏法を学び、その長短、適正を理解している先生なら、その人に合った説明をしてくれるはずです。特に、楽器を初めて始める場合は、何も判らないわけですから、先生の言葉が絶対的になりがちです。ですから、あまりふさわしくない教え方をされていても気がつかない場合が多いと思います。お話をしてみて、希望を伝え、先生がご自分を説明する言葉をもっているか、ということを判断することが必ずプラスになると思います。

そして、何を目標にしているかということを理解してもらえるか、という問題もあります。

子どもの場合、ごく一部の人を除いて始めは「どうなるかわからない」(プロになるのか、なれるのか、アマチュアとしてたのしめればよいのか、それなりのものになるのか)状態で始めるでしょう。これには両面 があります。「わからない」ということは、プロになれる可能性もあるわけで、先生の方もその子どもが最ものびることを想定し期待して教えます。ですから、初めはその先生が最大限に教えられることを教えようとするのです。しかし、子どもが成長するにつれ、他のことに興味が移ったり練習をきちんとせずに伸びなくなってくると、先生は教え方の進度をゆるめたり、少しづつ軌道修正することもあるかもしれません。子どもの場合は、このような変化があっても「あたりまえ」のことで、先生も対応に慣れていらっしゃる場合が多いと思います。

これにたいして大人の場合はどうでしょうか。ほとんどの先生が「大人から始めたのだから、どうせアマチュア。しかも、弾ける曲には限界があるし、耳も育っていないから、ちゃんと弾けるようにはなりっこない。」と考えているような気がします。すると、「それなりの」教え方になってしまう危険性があります。

確かに、子どもの頃から始めないとできないこともたくさんあるでしょう。しかし、「頭を使って効率よく練習する」ことでカバーできることもたくさんあるはずです。その可能性を切って捨ててしまっては、せっかく楽器をはじめることの楽しさが半減してしまうような気がします。

一方で、できることとできないこと、困難なこと、が区別が付かなければなりません。残念ながら、ごくごく例外的な人を除いて、大人になってから初めて楽器をさわった人には、やはり限界があると思います。もちろん個人差は大きいですが、ちゃんと練習すればだれでもイザイのソナタやブラームスのコンチェルトが弾けるようになる、とは思いません。そのことを理解し、なおかつできるところまで行けるような目標をたてることができるか、ということは、理屈を理解することができる大人にとっては重要な要素だと思います。

もちろん、要求としては「そんなに厳しい練習はしたくない。それなりに楽しむことができればよいので、限界が早く来ても良いから楽しみながら練習をしたい。」という場合もあるでしょう。それでも、そのことを理解し、適切な教材を用いてその人の要求を満たしながらレッスンを進めることは、先生の方には、ある程度の理解力がないとうまくいかないでしょう。

そして、「耳」の問題です。

楽器を教えることを、「奏法を教えること」と理解されている先生についてしまうと、大人になってから始めた場合、大きな誤解の上にレッスンが重ねられる危険性があります。それは、「耳があるかないか」ということです。 子どもの場合、練習を重ねることによって、意識しないうちに耳が訓練されることが多いと思います。勿論、楽器の演奏技術だけではなく、聴音などを併用することも多いでしょう。それで、しだいに「それなりの」音感がついてくることが普通 です。しかし、大人の場合は、頭で理解できるために、音感がなくても「あたかも音感があるかのような」錯覚を先生がすることがあります。

私が出会ったレイトスターターの中で、「全く音の高低がわからないのに、練習を重ねてそれなりの音程で楽器を弾くことができる」人がいました。歌を歌ってみると、音の高低が全くわからない。二つの音を弾いてみて、「どっちが高い?」ときいてみると、判断がつかないのです。楽器を初めて、もう1年以上になろうか、としているのに、そういう状態でした。それでも、楽譜を読めてそこそこ指は回ります。音程がいまいち悪いのは、技術的な問題だと先生は考えていたのでしょう。そういう指摘がなされたことはない、と言っていました。その人のレッスンは、まず、音の高低を理解することから始まりました。初めはとても苦労していましたが、程なくして、簡単な旋律なら歌えるようになりました。

これは極端なケースだとは思うのですが、音感をきたえることをしないできた人は多いはずです。その場合、音感を持つことをまず考えないと、いつまでたってもちゃんとした音程の演奏はできないでしょう。楽器を教えるということは、単に演奏技術を教えることではないわけで、「耳を鍛える」ことを重視できるかどうか、ということは、結構大きな問題だと思います。(〈 講座04 〉音感について1参照)

もし、「私は音感がないのですが」と感じられていて、それを先生に伝えても何も反応がないようだと、後になって結構しんどい思いをすることになるかもしれません。

最後に、発表会についても触れておきます。

レイトスターターが最初に「人前で演奏する」ことは、多くの場合、習っている先生の発表会でしょう。その中で、多くの場合、子どもたちと混ざって演奏を披露することになります。そうでなければ、少し弾けるようになってから参加したオケやアンサンブルの演奏会が、始めての舞台になることもあるでしょう。

この「発表会」が必要か否か、というのがテーマです。

ヴァイオリンに限らず、音楽の再現は、ある種の自己表現です。それをどう自分で捉えるかということは、実はヴァイオリンの表現力に直接関わってくる問題なのです。よく、「子どもは発表会をやるたびに上手になる」という言い方をします。それには二つの大きな意味があります。

一つは、発表会で披露するためにその時点での最善を尽くして曲を完成させるということです。単に練習するだけでなく、聴いてもらうためにどうしたらよいか、ということを考え、それに沿った練習をすることは、音楽をやる上でとても重要なことなのです。

二つ目は、人目に触れるという体験そのものによってもたらされるものがあるということです。

これ以外にも、他の人との直接的な比較にもなりますし、その以外にも意味があることはあるでしょう。そしてこういったことは、子どもたちだけに当てはまることでは決してありません。ですから、できれば発表会をきちんとやってくださる先生が望ましいと思います。

参考資料:column「音楽教師の資質」もご覧下さい。