柏木真樹 音楽スタジオ

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24
Apr.
2003
2003/4/24 Thu. 00:00

先日、ストリング誌の企画として、純正律研究所の玉木さんとお会いした。大変興味深い一日で、たくさんのことを考えさせられた。「対談」と称する記事になるのだろうが、もちろん大方私の方が聞き役。玉木氏が長年に渡って研究されてきた成果を教えていただく、というのが本当のところだ。

実は、玉木さんのウェブサイトは以前から知っていた。僕自身、音律のことに興味があったこともあって、あれこれと検索していたらひっかかったのだ。内容を読んでかなりのけぞったものもあるが、いろいろと勉強させられたことはもちろんである。僕の周りでは「純正律は世界を救う」というタイトル(玉木さんの著書のタイトルでもある)を見て「なんか宗教みたいだねぇ」と笑っていたのも事実だ。

さて、その「教祖様」との対談、実際の中身についてはストリング誌に譲るとして、幾つか面白かったことを僕なりに書いてみたい。

まず、玉木さんが「予想通り」の一面と「予想外れ」の一面をもっていらっしゃったこと。

僕は玉木さんを「純正律原理主義者」と規定していた。僕自身は玉木さんとは違い「いいかげんな純正律主義者」なのだろうと思っていたのだ。その点については、ほぼ想像通りの点と全く外れた部分がある。

音程の感じ方はほとんど違和感がない。しかし、世間のヴァイオリニストの音程に対しては、玉木さんはやはり「原理主義者」であった。厳しさが違う。ご自分が演奏家としても一流である(ヴァイオリニストと呼ぶと怒られる。音楽家なのだ)からだと思うが、その目は厳しい。一方で、平均律を使うことも当たり前で(テレビなどの有名な曲をたくさん書いている)、その点では少々イメージが違った。玉木さんいわく「自分は平均律がどんなものかを知っているから使える」そうだが、もっと「ごりごりと」純正律(というか、耳に心地の良いもの)だけを使おうとしていらっしゃるのかと想像していた。

また、ある意味で「頑固親父」だが、とても柔軟性のある人でもある。「頭が柔らかいから考えることができる」という点ではまさに「我が意を得たり」である。「頭を使っていないヴァイオリニストが多すぎる」という批判は、まさにいつも僕が多くの「ヴァイオリン教師」を批判している点でもあるからだ。僕は「大人にヴァイオリンを教えること」という視点から考えているが、彼は「音程」からその疑問を発している。もちろん、音程にとどまらず様々な側面から「頭を使うことの大切さ」を知っておられると感じた。

「音を出すこと」「音楽をすること」が目的であり「ヴァイオリンを弾くこと」が目的ではない、という点も、とても共感するものだった。玉木さんはヴァイオリンを使って実に様々なことをする。いわゆる「おしゃべりヴァイオリン」も得意技の一つ。ヴァイオリンをギターのように抱えて音を出したりもする。僕自身、あちこちでやってきたことなので、知っている人ならピンとくるだろう。ヴァイオリンをそういうことに使うことに抵抗がないのだ(とても嫌がるヴァイオリニストもいる)。そして、身近なモノをすぐに「音程」で表現しようとすること。こういった点が、僕の感性と全く同じで、少々驚いた。

言わんとしていることはとても「当たり前」のことなのに、あの人の表現では誤解されるし受け入れられないよなぁ・・・という「感想」を僕が弟子たちに語ったところ、大笑いされた。「それって、いつも私たちがMAKIさんに言ってることですよ」と。確かに、「もっと柔らかく書いた方が良い」というご指摘は何度も頂いている。しかしこちらとしては「喧嘩を売っている」という面もあるわけで・・・と考えたら、確かにその通りだ。しかし「この僕が」そう思うのだから、玉木さんが喰らっている反発は僕のレヴェルとは違うだろう。

肝心の、「ヴァイオリン教育の現場で音感を鍛えるためには」という話は全くできなかった。というより、玉木さんは「聴けば誰でもわかる」と考えていらっしゃるので、話がかみ合わないだろうと思ったことが、その話題を避けた理由でもある。確かにいろいろな「響きを教える」手段をお持ちだが、大人のアマチュアが音感を鍛えるために使えるかどうかという点については若干の疑問がある。「何故わからないか、わからない」からだろうと思う。玉木さんの言っていることを僕なりに「翻訳」できると良いのかもしれない。

個人的に面白かったのは、調律を変えたピアノを弾かせていただいたこと。キルンベルガーで調律したピアノでベートーヴェンを弾くと実に気持ちがよい。ある程度想像はしていたのだが、こんなに違うのかと本当に驚いた。玉木さんは「キルンベルガーを普及させる会」をやるんだとおっしゃっていたが、僕もある部分、賛成である。危惧していたのだが、ドビュッシーはほとんど問題ない。ただし、この話をKEIにしたところ、KEIの先生はそんなこと先刻ご承知だという。ラヴェルだと問題が顕著だそうだ。そのあたり、もう少し詳しく知ってみたい気がする。

また、僕がピアノを弾いて玉木さんにヴァイオリンを弾いていただき、キルンベルガーの調律のピアノでスプリングソナタの出だしを弾いてみた。やはり、調性の選択の理由がわかるような気がした。モーツァルトらしさ、ベートーヴェンらしさが音律に関係していることは間違いないだろう。(実は、このことを時間をかけてまとめるのが僕の「夢」だったのだが、かなり詳しく解説してある本を教えていただいた。所詮僕の考えてることなど、誰かがやっているんですよね(^ ^;;)

場所を変えて(よーするに飲みながら(^ ^;;)話は延々と続いた。最後は「お前はわかっていない」「玉木さんは事実を直視していない」と罵倒のし合い(^ ^;;ただし、音楽の話ではありません・・・念のため(_ _;;;;ストリングの編集長さんはおろおろしていましたが(^0^)ああいう議論は後を引かないんですよね。

[ 2003/04/24(木) 00:00 ] 日記, 音楽的主張| コメント(0)
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