柏木真樹 音楽スタジオ

トップページ > Blog > 日記 > オリンピックとそれにからむ政治についてのあれこれ

 オリンピックが「無事」閉幕しました。私自身はまさかこの状況下で本当にオリンピックをやるとは思っていなかったので衝撃なのですが、オリンピックについてあれこれと考えさせられた日々だったことも確かです。感染者が爆発し始めた7月最終週になっても、テレビはオリンピックのオンパレード。相変わらずの「御涙頂戴」の大安売りです。長い間精進し続けた全てのアスリートには最大限の敬意を払いたいと思いますが、それにしても日本および日本国民の情けなさを露呈し続けた日々だったように思います。

(1)私が最初にオリンピックに違和感を持ったできごと

 私がオリンピックを初めて認識したのは1964年の東京オリンピックのことです。当時5歳だった私は、祖母に連れられてマラソンを見に行ったりしました。まだ家にはテレビがなかったので、今のように連日オリンピックを見て興奮することはなかったのですが、それでも当時テレビを見せてもらっていた近所の家に行って無邪気に応援していたことは覚えています。東京オリンピックの意味(戦後からの復興を成し遂げたというアピール)などわかるわけもありませんが、それでも「オリンピック」という言葉には特別の響きを感じていました。

 それ以来、オリンピックにはやはり特別な感情を持っていました。次のメキシコオリンピック、さらに次のミュンヘンオリンピック(パレスチナゲリラによる襲撃事件は衝撃でした)くらいまでは、自然な感情として日本選手や日本チームを応援していたように覚えています。しかしミュンヘンオリンピック(思い違いで次のモントリオールかもしれない)で決勝戦で敗退した選手(おそらく柔道なんだろうと思いますが違うかも)が「本当に申し訳ない。すべては自分の不甲斐なさです」という意味のことを言っていた時に、強烈な違和感を持ちました。「世界中の選手が集まって競い合うトップの中で銀メダル、これは本当にすごいことで誇るべきことだと思うのに、何故この選手は謝っているんだろう。誰に謝っているんだろう」と考えてしまったのです。

 オリンピック憲章には、競技は個人(および団体)の間で戦われるものであり国家間の競争ではないことが書かれています。しかし実態的には、「日の丸を背負って」という表現が普通に使われています。もちろんこれは日本だけのことではなく多くの国でそうした傾向があるでしょう。当時私はオリンピック憲章なるものを全く知りませんでしたが、「この人たちはなぜ戦っているのか」という根本的な疑問が芽生えた瞬間だったのだと思います。その思いは、西側諸国がボイコットしたモスクワオリンピック、報復で東側諸国がボイコットしたロスアンジェルスオリンピックで確信に変わりました。「オリンピックは純粋にスポーツを競う場ではない」のだと。その後、東側諸国で行われていた国家ぐるみのドーピングなどが暴かれたこともあって、オリンピックを純粋にスポーツの祭典であると見ることはできなくなりました。

 私自身はスポーツはやるのも見るのも大好きでした。中学校の時は水泳部(ほとんど水球部でした)にいましたし、学生や大学をやめてからは草野球に精を出していました。自分がやっていた水泳はもちろん、野球やサッカーなどの団体競技を見るのも大好きでした。テレビで野球を見るようになってからは阪神タイガースのファンで幾度となくスタジアムに足を運びましたし、12チャンネルで深夜にプレミアリーグなどの放送をよく見ていたものです。中学時代の水泳部でトレーニングの厳しさはわかっていましたので、アスリートに対するリスペクトは常に持っていたと思います(ただし「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という意図的な誤訳には最初から違和感がありましたが)。

(2)オリンピックは誰のためのものなのか

オリンピックが商業主義に変質したのはロスアンジェルス大会以来だと言われています。そのこと自体はさまざまに論じられていますが、少し復習してみましょう。

1)「体育の日」が1010日だったのを覚えていますね・・・歴史を振り返ってみるとわかる「誰のためのオリンピックか」

 体育の日は一昨年まで1010日でした。これは1964年の東京オリンピックの開会式が1010日に行われたことによります。このことを知らない若い世代の人が多いのには驚きましたが、その話をすると「どうしてこんなに暑い時にオリンピックをやるようになったんですか?」と驚く人が多いのです。その理由を説明すると「本当ですか? 信じられない」と驚かれるのです。マラソン会場が酷暑が予想される東京から札幌に移されたのはご存知だと思いますが、なぜ真夏なのか。答えはプロスポーツ、特にアメリカのプロスポーツのシーズンにあります。

NFL:アメリカンフットボール

 開幕は9月、スーパーボールが2月 その後がオフシーズン

NBA:プロバスケットボール

 開幕は10月で、ファイナル(NBAファイナル)は6月。7、8月がオフシーズン

MLB:メジャーリーグベースボール

 開幕は4月で10月に終了する。11月から2月がオフシーズン

 大谷選手を始めとする日本人選手の活躍もあって、日本人の感覚では野球が一番人気のあるスポーツであるように感じてしまいますが、実はアメリカではアメフトと野球の人気や経済規模にはかなり差があります。人気のスポーツを調べているギャラップによれば、アメフトの人気度37%に対してNBA11%、そして野球は9%2017年)に過ぎません。当然、経済規模も大きな差があります。背景には大学リーグの人気(日本のすべてのスポーツの大学リーグを合わせた数百倍の人気だと思ってください)もあり、高学歴の人たちの支持も強い(すなわち相対的に金持ちにも支持されている)ということがあります。最大の放映権料を支払うアメリカのテレビ局としては、NFLという「ドル箱」とオリンピックがぶつかることはどうしても避けたかったのです(ちなみにソウルは例外的に9月でした)。1968年のメキシコオリンピックまでは秋開催でしたが、それ以降は夏になってしまいました。ちなみに、冬季オリンピックもNFL終了後に行われています(これはかなり昔からですが)。

 また欧州で人気があるサッカーも真夏の時期はオフシーズンです。すなわちIOCを牛耳っているいわゆる「オリンピック貴族」たち(その多くは王族、貴族や白人社会のお偉いさん。特にさまざまなスポーツ界の大立者)にとっては、真夏という儲けられない時期にオリンピックを行うことはとても「良い話」なのです。

 もちろん、言い訳は用意されています。

① アスリートが有名になるためには世界中の人が見ることができる方が良い。有名になればアスリート自身のためにもなる(稼げるようになる)

②オリンピックの収益は各国のスポーツ振興のために使われているのだからたくさん稼げる時にやったほうが結局は世界のスポーツを盛んにすることができる

 他にもあったような記憶がありますが、要するに「カネ、カネ、カネ」なのです。そして、実際にそれを手にすることができるのはほんの僅かな頂点を極める選手だけ。それ以外には無縁の話です。

 仮にIOCが「アスリートファースト」と思っているのであれば、過酷な条件を課すことになる北半球の7、8月にオリンピックを開催することは決してないでしょう。このひとつだけとっても、オリンピックが誰のためのものであるかわかります。

2)愛国心を鼓舞するため、また政権維持のために利用されてきたオリンピック

 安倍前首相が櫻井よしことの対談で「オリンピックに反対しているのサヨク」という趣旨の発言をして物議を醸しています。安倍氏のメンタリティーについて論じるつもりはありませんが、この発言はある意味で現在のオリンピックの本質を言い当てています。すなわち「どんな状況下であっても国が決めたことに反対するのは非国民である」という意識によってオリンピックが利用されている、ということです。

 スポーツは「戦い」です。戦争と同様、勝ち負けには(無意識であっても)愛国心が活性化しやすいものです。それはオリンピックでの各国の人たちの反応を見ていてもわかると思います。そして「愛国心」は人間としての理性や克己心から自由になった時に暴走します。金メダルを取った卓球の混合ダブルスペアに中国から誹謗中傷が殺到しているのはその典型的な例でしょう。これは中国人だからという問題ではなく、どの国にも起こりうるのです。旧東欧諸国は国民を圧制下に置いた上でその体制を正当化するためにオリンピックを利用しました。アメリカもモスクワ大会でオリンピックを国際政治の対立の下におきました。どちらが良いか、誤っているのかということではなく、愛国心を利用する時には右も左もありません

つづく

[ 2021/08/09(月) 14:35 ] 日記, 未分類| コメント(0)
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