ブログを更新する気持ちになれず、ほったらかしでしたがいくつか取り上げてみようと思います。
ひとつは「ヴァイオリンを弾きたくなったこと」
お前はプロだろ、という突っ込みはなしにしてください(笑) 僕にとってはとても真剣な話です。
これまで15年くらい、実はヴァイオリンを「自分のために」弾くことが苦痛でした。何かを練習しようとすると、常にチェックモードになってしまいます。曲を練習していても、「このフィンガリングなら手の小さいあの生徒は弾けるかな」とか「このボウイングだとあの生徒は難しいかも」などと常に教えるモードになってしまい、自分の音楽を作る作業に集中できなかったのがその最大の理由です。生徒が増えて取り上げる曲もさまざまになって、教える側として勉強すべきこともどんどん増えてくる一方です。最初の頃は自分の手持ちの曲だけで教えることができたのですが、プロや上手なベテランがどんどん増えて、勉強をし直さなければならないことは増え続けてきました。フィンガリングやボウイングを見直すにしても「自分に合ったフィンガリング」「音楽的に表現しやすいボウイング」だけでなく生徒によってさまざまな可能性を考える必要が生じてくると、曲に「向かう」という姿勢からはどうしても離れてしまいます。やや傲慢な言い方ですが、曲をどのように処理するかについては経験値が上がってかなり楽に教えられるようになってきたと感じていますが、「生徒用に」と思うとフィジカルな問題で考えなければならないことが多いのです。
自分自身が弾き続けていないとだめになることはわかっています。ですからアズールでソロを弾いたり、年に数回ライブをこなしたりしてきたのですが、それでも「自分のために弾くこと」がかなりしんどくなっていました。
2020年は、そんな自分にとって大きな変化があった年でした。緊急事態宣言下ではむしろ「なにもやる気にならない」状態が続いていて、比較的負担が少ないタイプタ叩きに専念していたのですが、アズールのコンサートが大きな契機になりました。モーツァルトの5番はレッスンでも何回も取り上げている曲ですので、曲自体はほぼ完全に頭に入っていました。どうやって弾こうかなと考えて練習をしている時に、「あ、自分が弾きたいように弾いていない」ことに気づいたのです。モーツァルトのレッスンをしていて「こうやって考えるんだよ」と教えてきたことが頭をよぎり、「こうやって弾いたら教わったことと違うと言われるかな」「ここのボウイングをこうしたら違うほうがいいと言われたじゃないかと思われるかな」などと、余計なことを考えている自分にハッと気づきました。教えるときは生徒によって言い方だけでなくボウイングやフィンガリング、そしてフレーズの感じ方なども違った説明をすることがあります。時には相反することを教えることすらあります。それがその生徒には最善だと思って教えるわけですが、そうした自分の言葉にあまりにも縛られていることに気づいたのです。
これではヴァイオリンを弾いていて楽しいわけがありません。
「指揮しているときは楽しそうなのに」と言われたことがあるのですが、それを自分が指揮者になりたかった過去を引きずっているからだと単純に考えていました。しかしそうではない、音楽をすることへの姿勢そのものが、ヴァイオリンを弾く時と指揮をする時で違っていたのです。そんなことを10月、11月と2ヶ月考えていました。アズールのコンサートの2週間前になって「そか、弾きたいように弾けばいいんだ」と納得がいきました。それは自分自身が「弾きたいように弾いたら音楽を壊してしまうのではないか」という恐怖から解放された瞬間でもありました。
こんな風に思えるようになったのは、それなりに音楽に対して自分の経験値が上がったからであることは確かです。レッスンをしているときの客観的な目(もちろん厳密な意味での客観性はありませんが)が自分にも向けられるようになったことでもあります。コンサートが終わって昔(30年以上前のものも)退いた曲を引っ張り出して弾いてみると、もちろん敏捷性などはかなり衰えていますが、とても素直に弾けることがわかりました。「ひょっとして、僕、上手くなってるかも(笑)」
今はヴァイオリンを弾くことが久しぶりに楽しくて仕方ありません。
まずは今年5月の発表会までに何曲か仕上げてみるつもりです。なにを弾くかはまだわかりませんが、みなさんに本気で聞いて欲しくなりました。
さて、こんな文章を書いていないでヴァイオリンを練習しよう(^^)