柏木真樹 音楽スタジオ

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【7】一進一退のボウイングのトレーニング

この段階で彼に課したトレーニングは、以下のようなものだった。

  • 1)各種のストレッチ。柔軟性を失わないように、これまでのトレーニングをセレクトして続けてもらった
  • 2)サポートをしてもらって、ボウイングの動きを再現すること
  • 3)ひとりでアップだけのボウイングをすること

私の目的は、彼がフォーカル・ジストニアを発症した時点での「最初のフィジカルな反応」を見つけ出すことにあった。これまでさまざまな人たちのレッスンやリハビリをしてきて、フィジカルな反応が「一斉に」出てくることはない、と考えているからだ。実際に本人が気がつくことは「大きな運動障害」であることがほとんどだが、そのきっかけになることは小さな反応であることが多い。そして、それを見つけられるかどうかが、「癖を取り去る」ための決定的に重要なポイントだと思っているからである。

実際に、この「小さな最初の反応」を見つけ出すことが困難であるケースは少なくない。反応自体が小さいものであることが多い上に、反応がどこに現れるかは予想がつかないからだ。右肩に力が入ってしまうことの根本原因が、足首の捻挫の後遺症であったケースすらある。F君の場合、中学・高校時代に陸上競技をやって鍛えた筋肉がかなりそのまま残っており、最初に余計な力が入ってしまった原因を完全に解明することは難しいとも思えた。研究対称ならひとつずつ可能性を取り去っていくのだが、目的は一刻も早く彼がヴァイオリンを再び弾けるようになることなので、同時に複数の点に注目しながらリハビリを進めた。結果として「最初の症状」が正確に把握できなくてもよいと考えた。

援軍としての奥様の力は、非常に大きかった。それは、実際に家での練習の効率が劇的に向上したこと、チェックをする第三者が常にいる状況を作れたこと、ということだけでなく、精神的にも大きかったのである。レッスンの時に出来たことが家ではできなくなる、また、その逆が起こる。こうしたことを繰り返していくうちに、彼が奥様に「頼って」いる部分と「見栄を張っている」部分がはっきりと見えてきた。そのことで、奥様のサポートの方法をいろいろと模索することができた。これは、心理的な問題を解決するためには、とても大きなことだったと思う。

この段階では、私がサポートすると、手首に力が入らずにボウイングができることが増えた。奥様のサポートでも「調子がいいとうまくいくことがある」という程度にはなりつつあった。ただし、ひとりで弾こうとすると、まだまだ手首の「めくれ上がり」が起こってしまう。

手首がめくれ上がる直前の筋肉の状態を注視しているうちに、問題点は前腕部の硬化していたところと親指にありそうだった。同時に、指と手首の分離がまだ完全ではなく、弓を持つ作業自体で手首に力が入る問題も残されていた。その他にも、小さな症状がいくつかあり、それにも対処していった。

主な諸症状から離脱するために、いくつかの方法を用いた。

  • 1)弓の指があたる部分に両面テープを貼ること(指の負担を減らす)
  • 2)親指の付け根をテープで角にならないように固定すること。親指にゴムサックをつけること(親指の居心地が悪く/親指が比較的長く「持て余した」状態で、親指の付け根を角張った状態で固定しやすい)
  • 3)指が自然に変形する動きを覚えること

弓にテープをつけたり、手に器具を用いることについて、彼は最初は明らかな拒否反応を示した。彼の性格からすると当然のことだが、「自分でやっているのではない」という意識が強く働くからだ。うまくいっても「テープをつけているし・・・」と、どうしても否定的に考えてしまう。

私は、普通のレッスンでも、こうした器具を使うことに抵抗がない。弓を持つ時にハンカチを握らせたまま弾かせたり、テープを使ったりすることは少なくない。自転車の練習をする時の「補助輪」のようなものだと思っているからである。(ただし、弓の軌道を安定させるための器具は絶対に使わない。結果を安定させるために別の運動を作ってしまうことがほとんどだからだ。)こうした練習に拒否反応を示す生徒は彼一人ではないが、その都度、動きを覚えたり安定させたりするために器具を使うことを「じゃあ、肩当ては?」と言って納得してもらっている。彼の場合も、最初は明らかに抵抗感があったようだが、毎回のようにいろいろな話をしていくうちに、次第に抵抗感がなくなっていった。

ボウイングのトレーニングは、まさに「一進一退」を繰り返した。少し良くなったと思うと、小さなきっかけで新たな問題が出てくる、ということが2ヶ月近く繰り返された。彼と奥様にとっては「またか」と思うようなことが度々起こったのだが、私は、ある時期からは楽観視していた。問題がピンポイントに指摘できるようになってきたからだ。

指の自然な変形は、奥様のサポートのおかげで、比較的短時間にできるようになった(思い出した?)。親指の伸縮が問題だったが、指サックを短くすることでほぼ解決した(関節を押さえなくするだけでなく、短く切ったサックの端が、親指の第一関節の屈曲を助けたようである)。

フォーカル・ジストニアを発症したときの最初のフィジカルな反応は、とうとう特定することはできなかった。本人が「弾けない」と感じたのは「手首のめくれ上がり」という症状だが、トレーニングを続けている間に、親指の硬直、肩甲骨の拳上運動、上腕の固定、肘の運動方向の混乱など、さまざまな要素が手首のめくれ上がりに直結していたからだ。サポートしている状態でも、2、3往復すると手首が硬くなってめくれ上がる。本人は手首と親指に「ダメだ」という意識が強かったのだが、それ以外にも上記のような運動が手首のめくれ上がりのきっかけとなっていることがわかった。運動を小さく修正したり、器具を少し工夫するなどの対処をとった。

4月から5月初旬にかけては、こうした状態が繰り返された。

【8】ボウイングができた!

明らかに変化が出てきたのは、5月の中旬である。上手にサポートすると、10往復ほどのボウイングができるようになり、一人で弾くアップ・ボウも、きちんとした運動ができる確率が上がってきた。本人も、「わかった」と思うことが増えたようである。

5月下旬になって、初めて、一人で往復するロングトーンができた。たった1往復ではあったが、きれいな運動をひとりで作ることができた。「これか!」と、彼も初めて「できた」と感じたようだった。まだ2往復目からは運動が崩れてしまうのだが、「0が1になった」ことの意味は大きかった。彼は「なんで続かないんだ・・」と非常に口惜しく感じたようだが、私の「0を1にするのは質的な問題だから大変だけど、1を2や10にするのは、量的な問題だから、これまでのことを考えたらすぐにできるよ」という説明に、ある程度納得してくれたようだ。

奇しくも、この日は彼の誕生日だった。ワイン付きのランチを一緒に食べながら、彼が心から笑う姿を始めて見ることができたように思った。

ここで、私はひとつの過ちを犯してしまった。腕があまりにきれいに動いたので、少し欲がでたのだろう、練習時間を伸ばすように指示してしまったのだ。その結果、2週間ほどでまた手首が硬くなる症状が起こり始めた。腕を調べてみると、上腕部の硬くなっていたところの疲労が激しかった。私が想像していた以上に腕の筋肉が硬化していた後遺症が強く残っていて、すぐに疲労する状態だった。腕全体や首、肩を緩める施術をして、2日間、楽器から離れてもらわなくてはならなかった。しかし、腕をゆるめると運動ができることが確認できたので、楽器を弾かない日を作ることをお願いした。

私にとって6月15日は忘れられない日になるだろう。

十分に休養とった後、サポートしてボウイングをやってもらったときの腕の感触が、これまでとは全く違うものだった。ひょっとして、と思い、ひとりでロングトーンをやってもらった。

彼は10往復のロングトーンをやりきった。

どこまで続けられるかを確かめたい衝動に駆られながら、私はかれの右手を持ち上げた。「できたじゃん」

これから、本格的にヴァイオリンを弾く練習になるが、私としては最大の山を越えたと思っている。現状では、サポートしていても左手を押さえると右手首に力が入ることがあるのだが、これはそれほど苦労することなく、取り去ることができるだろう。ボウイングに対する恐怖心は、徐々に少なくなるはずだ。

彼には、私がやっているオーケストラの曲のパート譜をプレゼントした。近いうちに、オーケストラで演奏している彼の姿を見ることができると確信している。

【9】まとめ

現状では、彼はまだ自由に弾ける段階には至っていない。左手をつけると、右手に力が入りやすい状態なのだが、「力が入る=手首がめくれ上がる」という状態ではなくなった。これは、本人にとっては大きな進歩だと思う。最大の「恐怖心」を取り去ることができる方向に向かっているからだ。

これまで、腱鞘炎や肩関節周囲炎(いわゆる五十肩)、関節の可動不全などのリハビリをお手伝いさせていただいて、多角的な見方が大分できるようになってきたようには思うが、今回のようなケースではある意味で「手探り」だったことは否定できない。ここまでたどりつけたのには、多分に幸運な面もあったかもしれないとは思う。

このような結果を得ることができた最大のポイントは、腱鞘炎や五十肩などのリハビリで、メンタルな部分が重要であることを繰り返して経験してきたことだと思う。最初から、本人の心理的な状態や性格を考えながらリハビリができたことが、重要な要素だったのだと考えている。

手に故障を起こすと、多くの人が最初に整形外科にかかってみる。しかしながら、現状の整形外科では、多くの病院が複雑な事例には対応しきれていないように感じている。(忙しさにかまけて十分な勉強ができていないのだが)最近は「音楽家の手」について専門的に治療を行なっている医療機関もあるので、そのようなところでは、心理的な側面も含めて十分な体制がしかれているのかもしれないのだが・・

整形外科で、注射一本で劇的に改善するケースもある。特に、最近は局所的にステロイドを注射する治療法などもあり、良い結果がえられることも少なくない。しかし、逆にブロック注射で症状が悪化した例も少なからずある。最初から漢方の治療を受けて、後遺症も残らずに良好に完治した例もあれば、漢方の治療が全く効果をもたらさなかったケースもある。何が合うか、ということは、心理的な問題も含めてひとりひとり違うのだ、ということを肝に命じておかなければならないと思う。

今回、あれこれと書いたことで、いくつかの貴重な情報もいただけた。「医者が楽器を弾く運動を理解してリハビリに当たる」ところは、前述のように増えていると思う。私は、これまで以上に体の仕組みや運動の理解を深めて「ヴァイオリン弾きが体を理解してリハビリに当たる」ことができるようになりたいと思っている。

長いレポートを読んでいただいて、ありがとうございました。

[ 2012/06/24(日) 08:45 ] ヴァイオリン, 体や頭のこと| コメント(0)
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