柏木真樹 音楽スタジオ

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(序)フォーカル・ジストニアとは

フォーカル・ジストニアという言葉をご存知だろうか。直訳すれば「局所性ジストニア」という意味だが、特に音楽家の運動障害(コントロール不全)に使われている。

ジストニアは、医学的には神経障害(中枢神経系のなんらかの障害)によって「意図しない」筋収縮が起こることにより、運動がコントロールできなくなったり動けなくなったりする症状を指す。代表的なものは「書痙」と呼ばれる症状で、文字を書こうとすると、手が震えたり、手首が動かなくなったり、痛みを生じたりする。他の動作には全く問題を生じないことが多く、フィジカルな問題がどこにもないのにこうした症状が起こることから、精神的な原因(恐怖心、心身症など)であるとされている。フォーカル・ジストニアは、書痙のような症状が演奏時に表れて、楽器の演奏が困難になることを指す。

フォーカル・ジストニアによって音楽家生命を絶たれた演奏家は少なくないという。詳しくは知らないが、有名なピアニストが指揮者に転向した背景にフォーカル・ジストニアがあった、とも言われている。また、タフな練習やコンサートを重ねているプロ奏者にとどまらず、アマチュアの演奏家にもこうした症状が現れることは少なくない。そして、原因がわからないために、ほとんど「不治の病」とされているのが現状である。

こうした背景は何となく知っていたのだが、これまでに自分の生徒や周囲の演奏家(プロ/アマチュア問わず)に、はっきりとフォーカル・ジストニアである、と判断できる事例にはであってこなかった。それが、昨年から私のところに来るようになったF君が、明らかにフォーカル・ジストニアであると思える症状を呈していて、そのリハビリを試みることになった。現在7ヶ月が経過しているのだが、ひとりでボウイングが出来るところまでたどり着くことができた。これまでの厳しい半年間を振り返ると、少しずつ前進してきた様子をわかっていただけるのではないかと思う。このレポートが、フォーカル・ジストニアに悩む音楽家にとって、何らかの資料になることを願っている。

なお、このレポートは、本人の了解を得て、フォーカル・ジストニアに悩む方へのヒントとなるべく、記録として残すものである。

【1】F君との再会、説明を受けた症状

F君から思いがけないメールが来たのは、2011年10月のことであった。大学オーケストラで活動していた頃、(大学は違ったが)彼とは一緒にアンサンブルの仕事をしたことがあるのだが、それ以来30年間、まったく交流はなかった。彼は、どうしても再びヴァイオリンを弾きたくなり、「右手/脱力」というキーワードで私のサイトにたどりついたという。突然のメールにも驚いたが、その内容を見て、私はすぐに「来て下さい」と返信をした。

F君からのメール(1通目)

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(ここまで/略)私は卒業後一般企業に就職し、(略)転勤をしてきて、その都度其々の地域で市民オーケストラで演奏を続けていました。しかし、今から約20年前頃、次第に右手の自由が利かなくなり、演奏をあきらめざるを得なくなってしまい、オーケストラ活動とは縁をきりました。しかしどうしても音楽には何らかの活動をしていたいと思い、色々な経緯を経て尺八をたしなみ、定年後には尺八で一旗揚げようかと考えていたところです。古典、虚無僧、三曲、地歌、民謡、ポップス、ジャズ、なんでもこなす尺八吹きでありました。(略)しかし、他の楽器はできるのに、時々バイオリンを試してみてもどうしてもこれだけは全く対応できないという状況が続いており、(後略)

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彼のメールを読んで、私はすぐにフォーカル・ジストニアを疑った。アマチュアとはいえ、ヴァイオリンの仕事を一緒にしたこともあるくらいの「名手」が、突然楽器が弾けなくなったこと、しかし、尺八を演奏する分には不都合がないこと、などを考えると、フィジカルな問題だけではないのではないか、と考えたからだ。(尺八については、勘違いであったことが後から判明した。尺八を吹く時には、彼の「主症状」である手首の意図せざる伸展が、尺八を吹く時には大きな問題にならなかったからである。そもそも、右手はかなり伸展した状態でも尺八を吹くことは可能なのだそうだ)

彼はレッスンに通うことは問題ないという。それなら、じっくり向かい合ってみようと思い、彼の来訪を待った。

F君からの状況報告メール(2通目)

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以前から右手手首、肘、肩、全体に必要以上の力が入っていたという認識はありました。
しかし、それにしても弾けなくなる状況があまりにも急激な変化だったので、とうとう弾けなくなってしまったと諦めたときには、脳のどこかに傷ができてしまったのだろうと、あきらめざるを得ませんでした。

ただ一点その当時弓の持ち方をいろいろな人に聞いて変化のチャレンジをしていたところ、従来の自分のスタイルを見失ってしまったという思いは何となくありました。

現状ロングトーンをほんの短時間できるものの、すぐにぐらつきが発生。

  • 1)親指が暴れだす
  • 2)右手首がめくれあがって弓を弦に定着できない。
  • 3)曲を弾く状況には至れない

弓と弦の角度をコントロールできない。弓が手前に倒れかけてしまって毛が前方に出てしまう。これも上記の右手のコントロールが困難な状況と同じ。

左手は右手さえ何とかなればたわいもないレベルかもしれないが何とか自己努力で回復できると思う。

世間に言われるショケイという病気がある。緊張のあまり、右手で文字を上手に書けない、ジャンボ尾崎がなったようにパットができないなど以外にこのような病気を抱えている人がいる。

私もショケイで字が上手に書けない、歯ブラシがうまくコントロールできない、傘を持ちにくい、など、細長いものを持ちにくいということと、パソコンの右手が打ちにくいという状況がありました。しかしパソコンに関しては前回の手術が終了してから不思議と症状が浅くなっています。

ショケイが原因であれば、楽器の練習というよりも、整体のほうが必要になるのかもしれませんが、とにかく脱力をキーワードに何がどうなっているのか、見てください。

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彼は、フォーカル・ジストニアをまったく疑っていないようであった。書痙の症状を自覚していたが、話を聞いてみると、ヴァイオリンを弾けなくなった時にはヴァイオリン以外にはそうした症状はなかったという。

彼による経過の説明は、概ね以下のようなものだった。

  • 1)20年ほど前、ヴァイオリンを弾いている時に手首がめくれ上がるようになった
  • 2)それからしばらく、奏法を変えてみたりいろいろと工夫をしたが、悪化するばかりだった
  • 3)最終的には、弓を持っただけで手首がめくれ上がってしまい、楽器を弾くことを断念した
  • 4)その後、尺八に転向したが、現在は、文字を書く、歯を磨く、パソコンを叩くなどの動作にもやりにくさがある
  • 5)しかしながら、アルペンホルンを作ったり、木製のホルンを作るなどの作業はできていた

当初のメールでは、ヴァイオリンを弾く以外のことには影響が出ていることを知らなかったのだが、その後のメールや会って話を聞くと、他の動作でも不自由を感じることがあるという。しかし、5)を見ると、単純にフィジカルな問題だけではなさそうである(もちろん、フォーカル・ジストニアと判定できるわけでもない/他の作業にも影響がでているので)。そこで、まずフィジカルなところからチェックしてみることにした。

彼の手を調べると、前腕と上腕に異常に硬くなったところがあった(写真の赤くなっているところ)。

 

その硬さは尋常ではなく、手で触って(マッサージをして)ほぐせるような代物ではない。普通の五十肩などに見られるような小さなものでもない。特に上腕部の「かたまり」は、卵ほどの大きさがあった。肘や肩を温めても全く反応はなく、一筋縄ではいかないことは明らかだった。こうした「かたまり」は、経年変化によって起こりやすく、五十肩を訴える人には、三角筋やその周辺にこうした固まりがあることが多い。民間療法の手法(腱引きなど、直接筋肉をほぐす施術)で症状がよくなることが少なくないのだが、このサイズのものに出くわしたことはなかった。とりあえず、筋肉の弾力を取り戻すことができるかどうかは、大きなポイントだと思われた。というのも、前腕部の赤くなっている部分は伸筋群であり、手首がめくれ上がる動作と直接的に関係があると思われたからだ。

どのようなリハビリをしてボウイングを取り戻すかどうかを考えるために、いろいろと話を聞き、症状を見て、私なりの仮説を立ててみた。大きな流れとしては、以下の2つの可能性が考えられた。

  • 1)最初は、フォーカル・ジストニアの症状だったが、無理を重ねるうちに筋肉に硬化が起こり、他の動作にも影響するようになった
  • 2)手の筋肉の硬化が始まって手首がめくれ上がるようになったが、時間が経つうちに他の動作にも影響が出てきた。

いずれであるかは「神のみぞ知る」なのだが(なにしろ、20年以上前のことだ)、手首のコントロールができなくなった当初のことを詳しく思い出してもらうと、どうも1)である可能性が高いと判断して、リハビリに取りかかることにした。方針としては、

  • 1)最初に、フィジカルな原因を徹底的に取り除く
  • 2)そのあとに、フォーカル・ジストニアの「本体」が姿を現すはずなので、その状態を見て次のステップに進む

であろうかと考えられた。

つづく

[ 2012/06/20(水) 10:06 ] ヴァイオリン, 体や頭のこと| コメント(0)
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