柏木真樹 音楽スタジオ

トップページ > Blog > 日記 > オリンピックとそれにからむ政治についてのあれこれ3

(5)経済効果とやらを検証してみる

 私は東京にオリンピックを招致する話が持ち上がった時に、「オリンピックなどにお金を使うなら、確実にやってくる関東大震災に備えるべきだ」と主張してきました。「東京に直下型の大地震が起こったら残ったのはオリンピックの施設だけだった」などというブラックジョークすら想像してしまいました。

1)東京都の経済効果の見通しについて

 オリンピックという錦の御旗があると、インフラに対する投資がやりやすいという側面は否定できません。「耐震化工事」などというといかにも地味で、その効果もなかなか目に見えるわけではありません(見えてしまうことがない方が望ましい)。だからといってオリンピック関連の工事でないと経済効果がないわけではありません。

 東京都の試算では、東京大会の開催によって約14兆円の経済効果があるとされていました。その内訳のうち12兆円をしめるのは、インフラの整備(交通網、バリアフリー化など)や大会後の観光客の増加(レガシー効果と言われる)などです。

 インフラや設備投資の増加に経済を押し上げる効果があるのであれば、オリンピックではなく本当に必要な公共事業を行えば良いのです。1960年代から70年代に急発展した東京は、すでに半世紀経ってしまった設備がまだまだたくさん残っています。私は出張するたびに品川から多摩川の鉄橋までの間で巨大地震が起こるなよ、といつも念じていますが(騒音対策のためにものすごく高いところを走っています)、阪神大震災でボランティアに張り付いていた記憶から、東京の大地震で多くのインフラが無事であるとは到底思えないのです。そもそも耐震補強工事は「これまでの経験から想定された揺れ」を基準にして行われますが、「想定外の揺れ」がこれまでどれだけ観測され言い訳にされてきたことでしょう。こうした古いインフラを更新するためには、それこそ何兆円ものお金が必要です。オリンピックのために使うよりそちらに使え、というのが私の主張でした。

 そしてコロナ禍でのオリンピックを考えると既に設備投資による経済効果は終わっているのですから、オリンピックを中止することによる実質的な利益の機会の損失はありません。さらにオリンピックによる消費の拡大は収入が増えない限り他の支出を削るわけですからそれを経済効果と呼ぶことには大いに疑問があります(こうした経済効果がよく言われますが根本的な疑問があります。単に支出が振り替わるだけでしょう)。

 残りは、オリンピックにやってくる外国人による直接的な経済効果や、オリンピックで東京が有名になって「行きたい」と思う外国人が増えることによる経済効果です。しかしコロナ以前の数年間の外国人観光客の増加を見ればわかるように、日本はすでに多くの外国人にとって「行ってみたい国」になっています。オリンピックをやったからといってそれが劇的に変化するわけではありません。

 このように、東京都が見積もった経済効果は非常に危うい(怪しい)ものでしかないのです。

2)繰り返されてきた過大な「経済効果」

「経済効果」という概念はこれまでさまざまな公共事業などを行うための錦の御旗として使われてきました。現実にはあり得ない搭乗率を前提として経済効果を計算してきたあちこちの地方の空港もそうですし、古くは我田引鉄と言われた国鉄の路線拡大(これ自体については公共交通機関のあり方についての根本的な問題があります)、「昭和の三馬鹿査定」発言が物議を醸した整備新幹線など枚挙にいとまがありません。ある事業を推進しようとする人たちは、楽観的どころかあり得ない数字を引っ張り出してその事業を正当化しようとします。それが繰り返された挙句に、高速道路の横に最新の農道を作ったり、ほとんど使われない空港が次々に作られたりしてきたのです。オリンピックの「経済効果」も「取らぬ狸の皮算用」ならぬ、意図的に作り出されたものでしかありません。

 数字の操作は官僚が最も得意とするところです。原発を推進するために「原発は経済的」という嘘を推進派が突き通してきたのも、官僚が「そのように見える」数字をしっかりと用意したことでできました。その手法は多岐にわたりますが、原発の「見返り」に整備されたインフラを原発のコストとして計上しない、核廃棄物の処理の費用を見積もりすら計上しないなどの方法は、当初から巧妙に隠蔽されてきたのです。それに比べればオリンピックの経済効果を過大に見積もることくらいはちょろいものだったに違いありません。

(6)コロナと東京オリンピック

 武漢でコロナが最初に流行してから、その勢いはあっという間に世界に広がりました。中国の情報操作やWHOの対応の遅れもあって世界中の国がコロナの脅威に晒されることになってしまいました。日本も例外ではありませんが、2020年にオリンピックが控えていた日本政府の対応は「コロナにどう立ち向かうか」でという本来の姿勢が「どうしたらオリンピックを成功させられるか」というバイアスがかかってしまったのです。

 そもそも政府はコロナをはっきりと甘く見ていました。その筆頭が当時の安倍首相で、2月末に「この3週間が勝負です」とあたかもすぐに事態が収束するかのような発言を繰り返しました。安倍首相の頭の中には、感染拡大を早めに収束させてオリンピックを行うことしかなかったのではないかと思います。しかし世界の感染状況はそのような甘い見通しを吹き飛ばし、3月24日にはオリンピックの1年延期が決まります。IOCの委員からは感染状況の不透明さゆえに2年延期する案も出たようですが、任期中(2021年9月まで)にどうしてもオリンピックを行いたい安倍首相が1年延期を強く主張した、という報道もありました(2年延期にすると北京の冬季オリンピックの後になるのを嫌がった、という報道もありましたがそれは穿ち過ぎではないかと思います)。その見通しの甘さは、「安倍政権の継承」を唱えた菅政権にもしっかりと受け継がれています。

 IOCが何がなんでも東京オリンピックを開催したかったのは明らかです。経済大国である日本で行われるオリンピックに期待する人は多く、当初から莫大な放映権料やスポンサー料がはいってくることが明白だったからです。事実、IOCの委員からは「感染状況にかかわらずオリンピックは開催される」「菅総理が中止を言ってもその権限はIOCにあるのだからひとつの意見として伺うだけだ」という趣旨の発言が繰り返されました。IOCは日本国民の健康や安全には全く関心がなく(中国相手だったら違ったかも)、ただひたすら金のなる木を手放さないという姿勢を崩しませんでした。

 菅総理だけでなく野党も本気でオリンピックを止めようとしたとは思えません。国会での質問はほとんど「寸止め」で、決定的な言質を引き出すことはできませんでした。「国民の安全が危険に晒されるならやらない」というところまで言わせたのに、それを具体化する質問ができなかったのです。オリンピックによる人流の増加が発生したらどうするのか、オリンピック関係者に感染者が出たら東京の病院に入院させるのか(感染状況が厳しければ都民の命を危険に晒すことになる)など、突っ込みようはいろいろあったと思うのですが・・・記者会見にまともに答えない菅総理ですから、それをする義務は野党にあったはずです。

 実際にオリンピックが行われている中での状況はみなさんもよくご存知の通りです。1年半にわたる政府、東京都の無策の結果、現場では医療崩壊が現実化しています。特にコロナ以外の患者の状況は悲惨で、必要な手術も行われないことが現実に起きているのです。オリンピックに割く人的、経済的資源をコロナ対策に当てられれば、状況が少しは良くなったのではないでしょうか。

 予想通り、オリンピックで明らかに人の流れが変わりました。連日、オリンピック競技上の周りには人が集まり、競歩やマラソンの沿道には人がたくさん出ています。さらに「オリンピックができるんだから俺たちもいいよね」という精神的な解放感が感染を拡大させていることは明らかです。あとは、せめて世界各地から持ち込まれたウイルスがカクテルされて新種が生まれないことを祈るばかりです。

 オリンピックが始まったら、案の定報道もオリンピック一色になりました。終わってみれば「やってよかったね、日本は金メダルもたくさん取れたし」という菅総理の目論見通りということになりかねないと暗澹たる気持ちです。

(7)政治の劣化が白日の元に晒されたことがコロナ禍と東京オリンピックの唯一の成果

 昨年から始まったコロナ禍は、政府が「どこを向いた政治をしているのか」を明白にしました。安倍政権以来、数の力でやりたい放題をして、国会では嘘のつきまくり、自分の発言にも全く責任を取らない政治が横行してきました。問題となったのは安保法制であり、またさまざまな利益供与でした。これらの事象は、はっきり言えば「自分には関係ない」と思うことができることだったかもしれません。しかしオリンピックとコロナ禍は政権がどこを向いているのかをはっきりさせました。もうひとつは、政権にとって都合が良いことは善であり不都合なことは悪である、という二元論的な狭量な思考に政治が陥っていることです。

 55年体制下では、政権を担ってきた自民党が党内での権力闘争によって切磋琢磨されていた側面があります。自民党の中にもさまざまな考え方の人がいて、それを許容する懐の深さがありました。今より政治家の質が高かったとまでは言いませんが、自民党内の異論や社会党の主張を政策に生かす柔軟性があったのです。それが大きく変化したのは中曽根内閣以来ではないかと思いますが、小泉政権下でその傾向ははっきりしました。そして「勝つか、負けるか」が政策立案の柔軟性を失い、結果にたいしてどう理屈をつけるかだけが政治の目的となってしまったのです。

 今回のコロナとオリンピックでもこの傾向は遺憾無く発揮されました。例えばオリンピックとワクチンの関係です。4月初頭には、会長の橋本聖子や丸川珠代大臣ともに「選手に対する優先接種は検討すらしていない」と否定していたのですが、選手に対するワクチンの無償供与(これ自体も怪しいものだと思います。経緯もまったく明らかにされていない)が決まると、待っていましたとばかり選手に対しての優先接種が始まりました。結果的に「選手の85%はワクチンの接種を終えて大会に参加するので危険性は全くない」という発言がバッハ会長らから出るようになりました。さらに政府やJOCのご都合主義が露呈したのはボランティアに対するワクチン接種の問題です。「ボランティアには優先的に接種する」と決めたのは選手の優先接種が始まった1ヶ月後。もちろんそれで大会に間に合うはずはありません。そのことを指摘された丸川大臣が「一回でも接種して一時的な免疫を獲得できる」とのとんでもない発言をしたのは記憶に新しいでしょう。この発言は丸川大臣の無知によるもので片付けられるものではなく、「自分に都合の良いように事実を曲げていく」という現在の政権の本質を表しています。さらに「そもそもオリンピックはワクチンの接種が前提ではなくそれでも安心安全に行えるようにされている」ということを言い出したのです。じゃあ、選手に優先接種をしたのはなんなんだ、という疑問が出てくるのは当然でしょう。これが相矛盾することでその場凌ぎをしても許される(国民はすぐに忘れる)ということを経験として学んだ現在の政権の姿です。

 コロナ対策の無策ぶりも、政権や東京都の無責任体制の結果として長く記憶されるべきことです。「日本ではロックダウンのような強権的な手法は馴染まない」として「自粛のお願い」を繰り返すだけで、医療体制の再構築や自粛した店舗、業界に対する補助なども後回し。今回の第5派になるまでの1年半を空費して、挙げ句の果てに「できるだけ在宅での療養を」と言い出す始末です。在宅での療養がどれだけ危険を伴うかは、第4派の大阪でいやというほどわかったはずなのに。そして「本当に必要な人に対してベッドを空けておくため」という言い訳だけは忘れません。直前に「重症者も増えていないし人流も減少している。心配することはありません」とどこかの総理大臣が宣っていたのは一体何なのでしょうか。

 書いていて嫌になるほどこうした無責任な政策、発言ばかりの1年半でした。「オリンピックによって感染が広がったとは思っていない」(菅総理)「オリンピックは安全に行われた。オリンピックによって感染が広がったという数字的なエビデンスはない」(バッハ会長)という発言が飛び込んできましたが、それでは営業自粛などにどんなエビデンスがあったというのか。自宅療養を強いる決定にどんなエビデンスがあったのか。ご都合主義これに極まれり、ですね。

[ 2021/08/14(土) 09:55 ] 日記| コメント(0)
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