La Petite Bande 横浜公演 「マタイ受難曲」を聴いて
久しぶりにコンサートに出かけました。クイケン氏のバッハに大いに興味があったことと、私自身が今求めていることへのヒントが欲しかったことが、今回のコンサートに出かけた大きな理由です(後者については、改めてブログに書こうと思います)。風邪を弾いていてマスクをして聴いたので、酸欠状態で睡魔との戦いでもありましたが(涙)。今回の「マタイ」、前日の東京はタケミツ・メモリアルでの公演でした。土曜日がもともとダメだということと、県立音楽堂の方が小ぶりで良いだろうと考えてこちらを選択したのですが、その点については正解だったようです(前日だったら行けなかった・・・)
私のバロック好きの生徒でもほとんど知識がない人が多いので、「マタイ受難曲」について、少しばかり解説しておきます。宗教的な意味を解説する能力はありませんので、もっぱら外形的なことにとどまります。入門者のためとご容赦ください。ご存知の方は読み飛ばしてください。
聖書には、旧約聖書と新約聖書があります。ユダヤ教やキリスト教の信者のみなさんからは「そんなに簡単なものではないよ」と言われることを百も承知でざっくり書いてしまうと、旧約聖書はユダヤ教の経典であり、キリスト教は両者を経典とするものです。神(神は唯一の存在です。それがそれまでの宗教やギリシャ神話のようにたくさんの神様が登場するものとの大きな違いです)が森羅万象を生み出してから(天地創造)ユダヤのたくさんの預言者と民、諸部族の歴史(「ノアの箱舟」「バベルの塔」「ソドムとゴモラ」などのお話やモーゼやサムソンの名前は聞いたことがあるはでしょう)が書かれたものが旧約聖書、キリストの誕生から死(十字架)そして復活、さらにキリストの弟子(やその弟子)たちの記録や教えをまとめたものが新約聖書です。いずれも、たくさんの聖書記録者が書き残したものを集めた集合体です。私のような無神論者が聖書をストレートに読むと、「神はユダヤ人を選んで教えの通りを歩ませようとしたのだが(古い契約/旧約聖書)、ユダヤ人が神の意志通りにしなかったのでキリストを遣わしてユダヤ人以外も含めて神の教えの通り歩む者を救おうとした(新しい契約/新約聖書)」ように見えます。また、旧約聖書の成立には諸説あり、初めから現在まで伝えられているものであり誤りがないと考える原理主義的な考え方(福音派)とさまざまな修正がなされてきたとする考え方もあります。内容についても、福音派は聖書に書かれていることを事実と捉え、自由主義神学では神話的要素を歴史的な事実ではなく宗教的な寓話であるとみなしています。詳しく書き始めると大変で、この点についてはこれにとどめておきますので、興味があればネットで調べてみてください。
新約聖書は全てがキリストの使徒(とその弟子)たちが遺したものですが、「マタイによる福音書」は新約聖書の4つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)のひとつで、使徒マタイが記したものです。キリストの誕生から死と復活までを記した、いわばキリストの生涯記です。そして、全部で28章からなるマタイ伝うち、キリストの受難(キリストを危険とみなす勢力によって磔にされて死ぬまで)を描いている第26、27章を音楽にしたものが、「マタイ伝受難曲」です。つまり、「マタイ伝受難曲」には、キリストが復活する最後の章が含まれていません。
キリストは十字架上の死から3日後に生き返ったとされています。その日付はもともと太陰暦で示されていたので、現在の太陽暦では年によって日付が変わります(今年は3月27日)。この日は復活祭(「イースター」という言葉はご存じでしょう)として、キリスト教にとってもっとも大切な記念日です。その日の前の40日間は(宗派によって違いがありますが)基本的には食事を節制し、キリストが復活するまでの宗教的な大切な期間とされています。今回のプティットバンドのコンサートは、まさに復活祭に向けたこの期間中に行われたわけです。「マタイ」を理解するためには、こうした背景も当然知っておいたほうがいいでしょう。バッハによる初演も、メンデルスゾーンによる再演も、もちろんこの期間中でした。今でも、この曲が演奏されるのは、ほとんどがこの期間中ではないかと思います。そのことで、キリストの死を悼み、復活祭の喜びにつながるのです。どこかの国の12月の第9と違って、意味があるのですね。
マタイ伝受難曲は、全部で68の小さな曲(合唱、アリア、レチタティーボ)からできています。各曲の詳細な解説を書いている余裕はありませんので、興味がある方はネットで調べてください。もちろん、ストーリーがありますから、字幕付きです。また、出演者の佐藤泉さんのブログ(http://blog.goo.ne.jp/aizemaisato/e/d1f68d46938eb2a3cf9ec14295711035)では、83回に渡って「マタイによる福音書の解説」を読み進めるかたちで解説されています。こちらも是非参考にしてください。
もうひとつ説明しておきます。
このような受難曲は、バッハの「マタイ受難曲」「ヨハネ受難曲」が有名ですが、他にもあります。失われた曲もあるのではないかと思います。それより、16世紀までは、音楽ではなく「受難劇」がよく行われていました。こうした劇が行われていたのは、多くの信者にキリストの受難と復活をはっきり知らしめるためだったと思います。宗教改革以前は、聖書を読み下すことができる人は極めて少なく(基本的にラテン語で書かれていた)、キリスト教の核心部分とも言える「受難から復活まで」をわかりやすく伝えるためには、劇を見てもらうのがよかったのでしょう。もちろん、受難劇だけでなく、古くからキリスト教の教えに従った劇はたくさんありました。楽器や楽譜が発達し、作曲技法もこなれてきたバロックの時代になると、こうした受難曲が受難劇に取って代わったのかもしれませんね。
さて、コンサートの話に戻りましょう。
編成は、オーケストラは「トラベルソ2、オーボエ2、ヴァイオリン1、2(今回はそれぞれ2人)、ヴィオラ、オルガンと通奏低音」という編成のオーケストラが2セットです。第1オーケストラでは、トラベルソがブロックフレーテに持ち替えられ、オーボエがオーボエ・ダ・カッチャにも持ち替えられます。あとは、2曲ほどヴィオラ・ダ・ガンバのソロがあります。今回は、通奏低音はチェロが用いられていました。合唱は、4声合唱が2組とソリスト群(登場人物をソプラノ、アルト、テノール、バスが分担する)。合唱といっても、今回は各パート1人です。演奏時間は、第1部(1〜29)が約70分、第2部(30〜68)までが約90分でした。
マタイの実演は、かなり前に2度ほどモダンの楽器の演奏を聴いたことがあるだけでした。録音はいくつか聴いたのですが、あまりピンとこなかった、というのが正直な感想です。もっとも、聴いたのはもう20年以上前ですから、今とは全く考え方も耳も違っていたとは思います。ピンとこなかった理由は幾つかあります。強いモダンの楽器で、しかも編成を大きくした演奏ばかりを聴いていたのですが、半端なオペラ仕立てのようでありながら、アリアの面白さが足りない。宗教曲といえばレクイエムは大好きだったのですが、オーケストラの音楽はそれに比べると面白くない。そんな中途半端な感じがしたのです。もちろん、当時も「ストーリー」は理解していたのですが、訴えてくるモノがありませんでした。
今回、プティットバンドの演奏を聴いて、この曲の価値がわかったような気がしました。それは、楽器がピリオド楽器だったからだけではなく、オーケストラの音楽が「対話」に聴こえたからです。もちろん、この曲の根本は聖書の記述です。その記述を単に旋律や和音で「補強する」のではなく(昔聴いた演奏はまさに音楽が単なる補強材料だったと思います)、音楽自体が言葉として対話に参加しているように感じられたのです。こうでなければ、受難曲を教会で行う意味が薄れてしまうでしょうね。改めて、キリスト教やバッハに対する自分のこれまでの理解不足も痛感しました。音楽には、それぞれ役割があります(ありました)。それを理解することは、モダンの楽器を使ってもとても大切なことだと思っています。今回のコンサートが聴けて、とても嬉しく思いました。
今回は、また、クイケン氏の初の著書(Petitebandへの寄付のお礼)もいただきました。こちらもとても楽しみです。じっくり読んで、感想を書いてみようと思っています。終演後にご挨拶ができて、少しだけお話することができました。とてもきさくな、素敵なおじさまです。よい思い出にもなりました。