ピアニストで名教師であった多喜(宇野)靖美先生が亡くなられました。私より数歳上という若さで・・・あまりに早い、と無念で仕方ありません。多喜先生は私にとって精神的な支柱でもありました。心よりご冥福をお祈りするとともに、自分の頭を整理するためにも、多喜先生のことを少し書いてみようと思います。
多喜さん(この後、多喜さんと書かせていただきます)と初めてお会いしたのは、今から40年近く前のことです。当時アンサンブルを組んでいた桐朋卒のピアニストが多喜さんと桐朋の同級生で、そのご縁で紹介していただいて室内楽のコンサートなどをご一緒させていただいたのです。私の中高の同級生と多喜さんのお弟子さんを宴席で無理やり合わせたり(その二人はその後結婚しています!)したのも良い思い出です。
20代で私が手を壊してヴァイオリンから離れてからは、多喜さんとは10年以上交渉がありませんでした。その後、30代でリハビリをしてヴァイオリンに復帰し、90年代にパソコン通信のフォーラムで知り合ったピアノのKEI先生にお誘いを受けてピアノの子どもたちにアンサンブルを指導するようになった時に使われた教材(ブルグミューラーなどをアンサンブル用にアレンジしたもの)の著者に多喜さんの名前を見つけ、「使ってますよー」という連絡をしてから少しずつご縁が戻りました。それ以来、コンサートのピアニストや発表会の伴奏者を紹介していただいたり、多喜さんのセミナーをきっかけに指導内容のお話をしたり、短い時間ながらとても中身のある話をさせていただきました。最近では、私の著書を読まれて身体の使い方で大いに共鳴し合い、「そのうちコラボでセミナーをやりたいね」とお話をしてくださるようになっていました。
多喜さんは、「エコ奏法」と名付けた独自のスタイルを広めようとしていました。簡単に言うと「身体をエコに使う/無駄なことをしない」というものです。これは私にとってのライフワークである楽器を弾くときの身体の使い方に通じるものがあり、その点でまず一致しました。多喜さんは好奇心に溢れ、私の身体の使い方の話を熱心に聞いてくださり、また自分の奏法との共通点もたくさん教えてくださいました。楽器こそ違いますが、身体の使い方の本質的な部分は全く同じです。私が自分のリハビリを通して見出した結論を、多喜さんは感覚的に自分のものにされたのです。「私はおばかさんだから理屈で説明できないけど、柏木くんはそれができるのはすごい」といつも過剰に褒めていただたことが、私にとってどれだけ力になったかわかりません。多喜さんはそんな風におっしゃいましたが、実際にセミナーを拝見していると、独特の語り口と演奏で、セミナーに参会していた多くのレスナー(ピアノの世界の言い方でレッスンをしている人)に説得力のあるお話をされていたのが印象的でした。私はどうしても理屈に走ってしまうので、多喜さんのようなアプローチはとても羨ましいものでした。
著名なヴァイオリニストやチェリストとともに行っていたピアノ指導者のためのアンサンブルセミナーも、多喜さんの活動の大きな柱でした。ピアノを弾く人の多くがアンサンブル能力に問題があることを早くから見抜き、独自の教材などを作って全国各地でセミナー活動を続けました。こうした活動も、私が以前から行っていたことでもあり、そんなところでも共通点がありました。
多喜さんは「私はマグロ、泳いでないと死んじゃうの」と笑いながら、癌の治療を続ける中で、昨年の12月末にとうとう動けなくなるまで全国を飛び回っていました。非常に悪質な癌でしたが、ここまで活動を続けられたのは多喜さんの「今日も音楽で免疫力アップ!」という気持ちだったのだと思います。最後に入院してから「さすがにおしまい。後は穏やかに最後を迎えます」と一旦はFacebookに投稿したものの、20日にお見舞いに行った時には「私のメソッドを本にして残してもらえることになったの。それに3月末にどうしてもやりたいセミナーがある。そこまでは頑張る」と、元気よくお話をしていました。多喜さんを見ていると「ひょっとして実現されてしまうのではないか」と期待したのですが、その5日後に容体が急変され、水曜日にこれからのことをお話しするために呼び出されて、最後の最後までいろいろとご自分の気持ちを語ってくれました。「しっかりやりますから任せてください」とみんなでお話をさせていただき、それで安心されたのか翌早朝に息を引き取られました。
私にとって多喜さんは、戦う場所こそ違いますが、戦友のようなものだったと思います。ピティナの評議員、昭和音楽大学の講師として公式に活動していましたが、その中身は「常識と停滞に対する挑戦」そのものでした。その姿勢は、常に新しい知見を求め、それをできるだけ多くの人に伝えるための活動に結びついていたのです。多喜さんは「柏木くんは背景(音大を出ているとか公式の身分であるとか演奏家としてのキャリアとか)がないからすごい苦労したと思う。音楽の世界はそういうしがらみで動いているから。でもやっていることは素晴らしい。できるだけ多くの人に伝えてほしいし、できることがあったら私も協力したい」と常に言ってくださいました。私が「音楽教育の常識に反することを喧嘩を売りながらのし上がって来た」ことをよく理解してくださっていたのです。多喜さんのような伝場力はありませんが、少しでも多くの人に伝えたいという思いが、サラサーテ誌の連載などに結びついます。ここまで来るためには、せきれい社の佐瀬社長をはじめとする多くの人に助けていただきましたが、多喜さんは私にとってのまさに精神的な支柱でした。近いうちにコラボができるのではないかと期待していたのですが、それはかないませんでした。しかし、いつまでも多喜さんの笑顔を忘れずに、これからの自分の活動を続けていきたいと思います。
あらためて、多喜先生のご冥福をお祈りいたします。