柏木真樹 音楽スタジオ

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私の掲示板の回答(1)を受けて返信してくださったものに対しての回答です。(笑)

 

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読み応えのある再質問、ありがとうございます(笑)

 > 目に見えない要素(今回のお話の音程や、曲作りそのもの)
 > については、まだまだ私にとっては‘謎’がいっぱいなので
 > すが、こうやってヒントをいただくと楽しみが広がります。

何かにこだわると、こだわったことが全てを支配するように思いがちなのですが(これは、自戒を込めて)、音律や音程は「謎」のひとつでしかありません。KV454のキーワードに「オペラ」を挙げましたが、これとて一部分にすぎません。これからも、さまざまな「見方」「考え方」に触れてほしいと思います。

 

 > モーツァルトが「進化」した、という‘事実’はわかりまし
 > た。柏木さんはこの「進化」を「時代を乗り越える」ための
 > ‘条件’と考えていらっしゃるのでしょうか?(この時代に
 > はたくさん作曲家がいたわけで、例えばサリエリには‘条件
 > としての「進化」’が不足していた?)それとも、結果とし
 > て「時代を乗り越えた」ことに対する‘一要素’としてあげ
 > ていらっしゃるのでしょうか?

「進化」することが「コンテンポラリーである」ことの条件であるか、ということは、とても難しい問題です。極端なことを言うと、ある作曲家が一曲だけ「名曲」として残っている場合、その作曲家の作品が「進化」の結果なのかを問うことはあまり意味がなさそうです。また、ある地方やある時代を表す音楽が、そのことのみをもって、私たちにとって「同時代性」を持つこともあり得るでしょう。しかし、私は、モーツァルトやベートーヴェンの音楽には、彼らが生きた時代を突き抜けた勢いを感じます。この「進化」は、ある意味では多くの人に同時代性を感じさせる条件になっているのではないか、とも思います。「言葉の遊び」とは思いませんが、条件なのか結果なのかは、どちらでもよいのかもしれません。

(この「同時代性」については、他の見方もたくさんあります。一例を挙げれば、「バッハはキリスト教を理解して(信じて)いれば時代を経ても素晴らしい音楽でありうる」という意見です(この見解の裏には「キリスト教を信じていないとバッハの良さはわからない」という意味がありそうですが)。この見解についてのコメントはさておき、宗教というひとつの「真理」が不変であればそれに基づくものは過去のものにはならない、という意味で「同時代性」を述べた見解だろうと思います。)

 

 > また、これは古典派についてのお考えですか?古典派は楽器
 > の変遷などを考えても特に「進化」が求められたということ
 > はわかるのですが、ロマン派でもかなり「時代を乗り越えて」
 > 来ていますよね。

そうですね。ロマン派かどうかは微妙ですが、ベルリオーズなんかは「時代からはぶっとんで」いる感じがします(笑)。「進化」がその時代の当然の帰結に含まれるのかどうか(価値観が変わるような新しいものを産み出したのか否か、など)によっても違うかもしれませんが、ロマン派の時代は、時代背景自体がある種の「勝手さ」を許容していたので、「時代を乗り越えて」いたのか「個性」なのかが難しいところだとは思います。好き嫌いがはっきりわかれるのも、それが原因ではないかと思います。面白いテーマだと思います。使う楽器がヴァイオリンなので、「ワグナーの進歩性」なんていうレクチャーコンサートをやる予定はありませんけど(笑)。

 

 

(弾く側 として)

 > 平均律のピアノでどうピアニストが音程に注意できるのか、
 > このあたりを次にピアノが登場するレクチャーコンサート
 > で聴かせていただけるとうれしいのですが?

うーん。ピアノを弾くのかなぁ・・音程のよいピアノと悪いピアノを実演することくらいはできるかもしれません。もちろん、とっっっっても簡単な曲に限られますが。

 

 > ヴァイオリン側にも、まずは注意力と良い耳、それからそれを
 > 実現できる腕(うーん)。練習しなさい、ということですね。
 > できないから諦めろと書かれなくてよかったです(笑)

そのようですね(笑)

今回、一番嫌だった曲は、KV29です。装飾音が弾きにくいことだけでなく、ピアノの音程に寄せにくいところが結構たくさんありました。in Dなのが原因でしょうか。もともとヴァイオリンはピタゴラスの楽器なので、GやDはとりやすいのですが、逆に旋律音程から外れると結構やっかい。耳を使うことは、レッスンで少し詳しく突っ込んでみようと思っています。

第1回レクチャーコンサートの感想と思うことに対して掲示板に書き込みがありました。なかなか面白いやりとりでしたので、その時の私の回答を載せておきます。

 

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鋭い質問、ありがとうございます(笑)回答は順序がバラバラになりますがご容赦ください。

 

《ノリントンの考え方やピリオド奏法についての多少の感想》

ノリントンは、練習のヴィデオやベートーヴェンの番組を見ると、敢えて喧嘩を売っている感じもします。私が言っている「演奏ロマン主義」の時代に対するアンチテーゼなのでしょうか。ピリオド奏法にしても、「これが正しいのだ」という意識で解説されているものに出会いますが(演奏している人たちはそんなことはないはずです)、違和感があります。ピリオド奏法を選択している演奏家は、それによって古典的な曲の中に新しい(というのは、演奏ロマン主義の時代には見えていなかった、と言う意味)発見を求めているのだと思います。

その意味では、私がやっていることは少しスタンスが違うかもしれません。頭の中で組み立てた古典の曲に時代を超えた価値を見いだすにはどうしたよいか、ということが中心だからです。時代を超えた価値、とは「古典派の作曲家自身が感じたものがそのままで絶対的に価値がある」というものではなく、私たちの時代の方法論を用いてもそれらの楽曲に価値がある、ということです。そうした意味で、今回のレクチャーコンサートで示したかったことのひとつは、モーツァルトが「進化」していったことで、私たちにとって価値のある作曲家として「時代を乗り越えた」のだということでした。初期のソナタを平均律のピアノでピタゴラスの音程のヴァイオリンを合わせると、無惨なものになってしまいます。もちろん、いくら古典調律にしてヴァイオリンの音程を当時のように弾いてみても、モダンのピアノとヴァイオリンでは私たちの耳にとってすぐに受け入れられるものにはなりませんが、今回のように時代を追って聞き比べることで、モーツァルトに対する興味が広がっていただけたら、と思っていました。

このあたりのことは、レクチャーコンサートを重ねる間に、少しずつ述べて(聞いていただいて)いきたいと思っています。

 

《演奏家に期待すること》

 > プロの方には、自分がどういうことを考えて、何を選択し、
 > 演奏しているのか、ステージで話す(あるいはプログラムに
 > 書く)ことで、もっと示していってもらいたいと思います。

そうですね。そうした試みがもっとあってもよいかもしれません。私自身は、演奏家として自分のヴァイオリンだけで有無を言わせないで満足させることができるとは思っていませんので、コンサートで果たす役割は違います。むしろ、こうしたコンサートをやることで、さまざまなことに興味を持っていただけるように、ということが「やりたいこと」でもあります。

 

《コンサートで取り上げたモーツァルトの曲について》

 > K.454 を、古典調律に合わせて弾かれなかった理由は、
 > この時代のモーツァルトであれば平均律でも気にならな
 > い、ということと理解しました。

「気にならない」という表現は気になりますが(苦笑)、「平均律のピアノでも楽しめるほどさまざまな要素がある」という言い方が正確ですね。仮に、レクチャーコンサートではなくて純粋に聞いていただくコンサートであれば、最後の曲も古典調律のピアノで演奏したと思います。

 

 > 今回のコンサートで、柏木さんはモーツァルトについて、
 > 3つの演奏方法を可能性として示されました。では、実際
 > にアマチュアプレーヤーが演奏する際には、どうすれば
 > 良いとお考えでしょうか?
 > でも、それ以前のモーツァルトを私たちが弾く時も、
 > 普段は平均律のピアノしか無いわけですよね?

はっきりと線引きしてしまったので、この点については説明不足でした。KV304や379を平均律のピアノとともに演奏することが無意味だ、ということではありません。演奏する時に、モーツァルトが書いた楽譜の何を読み取るのか、ということを問題になります。例えば、KV304を平均律のピアノで弾くのであれば、まずピアニストに音程に対する注意力が要求されます。その上で、旋律線を旋律らしく(ピタゴラスで)弾くところ、ピアノの音に対してできるだけ不快にならない音程を要求されるところを区別することが望ましいでしょう。そのために必要なことは、ただしく旋律音程がとれることと、耳で音程を微調整できるようになることです。これは、レッスンでいつもやっていることそのままですね。

音程の違いを感じさせないような表現を誇張した演奏(コンサートではやってみせましたが)をのぞまないのであれば、こうした配慮をもって演奏ができれば、十分に鑑賞に堪える演奏ができると思います。ただし、初期のチェンバロの伴奏として書かれたソナタは、通常の旋律音程ではかなり「気持ちの悪い」ものになってしまう可能性が高いと思います。

回答になっていますか?

私がレクチャーコンサートを企画して続けていきたいと考えている最大の理由は、多くの作曲家が遺した作品が「コンテンポラリーである」ことを示したい/感じていただきたい、と思っていることです(このことは、実は書くつもりはありませんでした。しかし、何人かの生徒に鋭い質問をされ(苦笑)白状せざるを得なくなってしまったので、公平を期するために書いてしまうことにします)。何回かレクチャーコンサートを聞いていただくと「あ、また言ってる」という具合に感じていただけると思っていたので、敢えてお話をしなかったことなのです。続けて来られない方もいらっしゃるのですから、「ネタをばらす」方がいいかもしれません。

ここで私が言っている「コンテンポラリーである」ということは、「時代を経ても人々がその曲に価値を感じる」ということです。価値を感じる、ということについては、ある前提があります。それは「曲を借りて演奏者を表現するのではない」ということです。曲自体にコンテンポラリーな価値があるということは、曲の一部(旋律等)を借りて好きなようにアレンジする、ということとは違います。そのあたりのことは、レクチャーコンサートの資料に詳しく書きました。モーツァルトを演奏するときに、モーツァルトが書いた楽譜を借りて自分が感じるままの演奏をするのではなく、できるだけモーツァルトが感じたであろう音楽を再現しながら現代的な価値を見つけること、ということが目標なのです。

私が「博物館に入れるための演奏をするのではない」「学術的な正しさを最優先する訳ではない」ということの意味は、ここにあります。次回は、いわゆるバロック時代に書かれた曲でレクチャーコンサートを行ないますが、チェンバロを使いつつも、ヴァイオリンは普段の楽器、すなわちモダンのものを使います。この点にはこだわりがあって、モダンの楽器で演奏しても鑑賞に堪えるものになるはずだ、ということを強く思っているからです。ヴァイオリンがモダンでありながらチェンバロを使うことの矛盾を指摘されるかもしれません。確かに、音量が大きくなった我々の時代のヴァイオリンとチェンバロでアンサンブルをすることは、ピアノと演奏することよりも多くの解決しなければならない問題を含んでいます。しかし、それも含めて、バロック時代(や古典派のもの)をよりよい形で演奏できないか、というのがテーマなのです。

このことは、私は生徒から教わりました。私自身は以前から古典派やそれ以前の音楽が好きだったので、発表会でチェンバロを使うという「荒技」を使ってきたのですが、結果としてバロックを好きになる生徒が続出したのです。私はほとんどCDを聞かないのですが、最近では生徒さんたちが私の知らない曲の楽譜やCDを持ってきて、「これが弾きたい」というほどになりました。もちろん、みなさんが演奏として聞いているものは古楽器のものがほとんどですが、曲からイメージされるものに興味を持ったり好きになったりしているのです。実際にも、発表会で一度チェンバロとやった生徒の「リピート希望」率はとても高いのです。これは、バロックの曲をモダンの楽器で演奏することに十分意味があることを表していると言えるでしょう。

これからのレクチャーコンサートも、古典派のものが中心になります。年に2、3回のペースで続けたいと思っているのですが、やってみたい企画はたくさんあります。皆さんによろこんで聞いていただけるように、企画もレクチャー/演奏の中身も、さらに充実させていきたいと思っています。

レクチャーコンサートの感想を、生徒だけでなく、たくさんの方(合わせて現時点で30人ほど)からいただきました。どうもありがとうございました。その感想と、私が思っていることを少し書いてみたいと思います。

コンサートそのものを「楽しめた」という方が多かったことはとても嬉しく思っています。特に、音律の異なったピアノの違い、和音による響きの違い、モーツァルトの曲による違いを感じていただけた方が多かったことは、今回のレクチャーコンサートの目的をある程度達せられたと思っています。その点については、以下のような感想をいただきました。

(複数、は、概ね5以下。多数は二桁以上の人からの感想です)

  • ・古典調律のピアノの和音がとてもすなおで気持ちよかった(多数)
  • ・家のピアノもキルンベルガーにしてみたい(複数・・ちょっと驚きました)
  • ・和音による響きの違いがとても面白かった(多数)
  • ・最初の二曲はヴァイオリンの音がピアノに溶けているようだった(多数)
  • ・最後の曲はヴァイオリンとピアノが別のキャラクターに感じた(多数)
  • ・二時間半が短かった(多数)
  • ・モーツァルトの知らない面が面白かった(多数)
  • ・モーツァルトの楽しみ方が変わるように思えた

一方で、

  • ・和音の違いがよく実感できなかった(複数)
  • ・平均律のピアノの方がしっくりきた(複数)
  • ・古典調律のピアノでの演奏は、ヴァイオリンも含めて物足りなかった(複数)
  • ・最初の二曲のヴァイオリンの音程は気持ちが悪かった
  • ・みなさんが「きれい」と感じた方がしっくりこなかった(複数)

という感想もいただきました。

結果としては、予想していた以上にみなさんが好意的な感想を述べていただきました。とても励みになります。その感想を踏まえて、いくつかのことを書いてみようと思います。

平均律のピアノの方がしっくりくる、という感想は、実はもっとたくさんの方から返ってくるのではないかと思っていました。古典調律のピアノを初めて耳にする方がほとんどであるはずで、慣れ親しんだ平均律の方が聞きやすくても不思議ではないからです。これは、あちこちに書いている「平均律は化学調味料」ということで説明がつくと思います。何回か繰り返さないと、違いはわかっても古典調律のピアノが気持ちがよいと思えない人が多いだろう、という予想を立てていたからです。ところが、現時点では「平均律の方が好き」派が圧倒的に少数です。二つを並べて、ある程度解りやすい和声進行で弾き比べをしたことが良かったのかもしれません(余談ですが、一番受けたのが「悲愴」の弾き比べだったようです・・苦笑)。

同じ理由で、最初の二曲のヴァイオリンを「気持ちが悪い」と感じる人も、もっと多いのではないかと思っていました。最初の二曲は、古典調律のピアノと全く同じ音高(場所によってはできるだけ協和する音程)で弾くようにしたのですが、当然、旋律線もピタゴラス音律ではありません。慣れ親しんだ旋律進行からはかなり乖離しているので、気持ちが悪いと感じる人がいても全く不思議はないからです。練習は非常に神経を使う作業でしたが、ピアノと協和する音程でほぼ弾けたことが、気持ちの悪さを緩和したのかもしれません。そうであれば、とても嬉しいことですが。

アンケートでも、「古典調律と平均律の弾き比べをもっと聞きたい」という声がとてもたくさんありました。ピアノだけでやるより、旋律線が独立している分、わかりやすい(感じやすい)のかもしれません。検討してみる価値がありそうです。音律や作曲家が書いた調性について興味を持つ方が多いことを願っていましたが、その意味では成功だったようです。

昨日は、自分にとって大きな分岐点になる企画である、レクチャーコンサートを行ないました。ほぼ満席になる状態でした。ご来場くださった皆様に、厚く御礼を申し上げます。

今回の企画の主要な点は、二台のピアノを聞き比べていただいて違いを知っていただくこと、そこからモーツァルトのイメージを少し拡げていただきたいこと、さらに、5曲のソナタを聴いていただいて、モーツァルトがどのように変わっていったのかを感じていただくことが主眼でした。その行きつく先は、古典調律の時代の作曲家であるモーツァルトが何故「コンテンポラリー」でありうるのか、ということを考えていただきたかったのです。

結果的には、なんとか及第点をいただけるコンサートになったのではないか、と思います。ピアノの弾き比べ(音律の違うピアノの弾き比べ、古典調律のピアノの調性による違い)は、多くの方に驚きを持っていただけたようです。ヴァイオリンも、三通りの音程/奏法で弾き分けたのですが、気がついて下さった方もたくさんいらっしゃり、それぞれの面白さを感じていただけたと思います。このコンサートをきっかけに、モーツァルトや古典派の音楽に対する興味が更に広がっていただければ、企画者としてこんなに嬉しいことはありません。

アンケートの回収率が50%を超えたのも、嬉しい誤算でした。改善すべき点や演奏についてのご意見もいくつかありました。いただいたご意見を参考にして、さらに精進していきたいと思います。

自分自身のついては、反省点がたくさんあります。大切なことを話忘れていたり、演奏についてももう少し余裕が欲しかったことなど、これからの活動に役に立つと思われる経験をさせていただきました。

共演者、お手伝いをして下さった方々にも、こころより感謝いたします。このような企画を来年以降も続けていくつもりですので、みなさまのご理解、ご協力を重ねてお願いいたします。

どうもありがとうございました。

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