柏木真樹 音楽スタジオ

トップページ > その他 > 第1回レクチャーコンサートについて掲示板から抜粋(1)

第1回レクチャーコンサートの感想と思うことに対して掲示板に書き込みがありました。なかなか面白いやりとりでしたので、その時の私の回答を載せておきます。

 

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鋭い質問、ありがとうございます(笑)回答は順序がバラバラになりますがご容赦ください。

 

《ノリントンの考え方やピリオド奏法についての多少の感想》

ノリントンは、練習のヴィデオやベートーヴェンの番組を見ると、敢えて喧嘩を売っている感じもします。私が言っている「演奏ロマン主義」の時代に対するアンチテーゼなのでしょうか。ピリオド奏法にしても、「これが正しいのだ」という意識で解説されているものに出会いますが(演奏している人たちはそんなことはないはずです)、違和感があります。ピリオド奏法を選択している演奏家は、それによって古典的な曲の中に新しい(というのは、演奏ロマン主義の時代には見えていなかった、と言う意味)発見を求めているのだと思います。

その意味では、私がやっていることは少しスタンスが違うかもしれません。頭の中で組み立てた古典の曲に時代を超えた価値を見いだすにはどうしたよいか、ということが中心だからです。時代を超えた価値、とは「古典派の作曲家自身が感じたものがそのままで絶対的に価値がある」というものではなく、私たちの時代の方法論を用いてもそれらの楽曲に価値がある、ということです。そうした意味で、今回のレクチャーコンサートで示したかったことのひとつは、モーツァルトが「進化」していったことで、私たちにとって価値のある作曲家として「時代を乗り越えた」のだということでした。初期のソナタを平均律のピアノでピタゴラスの音程のヴァイオリンを合わせると、無惨なものになってしまいます。もちろん、いくら古典調律にしてヴァイオリンの音程を当時のように弾いてみても、モダンのピアノとヴァイオリンでは私たちの耳にとってすぐに受け入れられるものにはなりませんが、今回のように時代を追って聞き比べることで、モーツァルトに対する興味が広がっていただけたら、と思っていました。

このあたりのことは、レクチャーコンサートを重ねる間に、少しずつ述べて(聞いていただいて)いきたいと思っています。

 

《演奏家に期待すること》

 > プロの方には、自分がどういうことを考えて、何を選択し、
 > 演奏しているのか、ステージで話す(あるいはプログラムに
 > 書く)ことで、もっと示していってもらいたいと思います。

そうですね。そうした試みがもっとあってもよいかもしれません。私自身は、演奏家として自分のヴァイオリンだけで有無を言わせないで満足させることができるとは思っていませんので、コンサートで果たす役割は違います。むしろ、こうしたコンサートをやることで、さまざまなことに興味を持っていただけるように、ということが「やりたいこと」でもあります。

 

《コンサートで取り上げたモーツァルトの曲について》

 > K.454 を、古典調律に合わせて弾かれなかった理由は、
 > この時代のモーツァルトであれば平均律でも気にならな
 > い、ということと理解しました。

「気にならない」という表現は気になりますが(苦笑)、「平均律のピアノでも楽しめるほどさまざまな要素がある」という言い方が正確ですね。仮に、レクチャーコンサートではなくて純粋に聞いていただくコンサートであれば、最後の曲も古典調律のピアノで演奏したと思います。

 

 > 今回のコンサートで、柏木さんはモーツァルトについて、
 > 3つの演奏方法を可能性として示されました。では、実際
 > にアマチュアプレーヤーが演奏する際には、どうすれば
 > 良いとお考えでしょうか?
 > でも、それ以前のモーツァルトを私たちが弾く時も、
 > 普段は平均律のピアノしか無いわけですよね?

はっきりと線引きしてしまったので、この点については説明不足でした。KV304や379を平均律のピアノとともに演奏することが無意味だ、ということではありません。演奏する時に、モーツァルトが書いた楽譜の何を読み取るのか、ということを問題になります。例えば、KV304を平均律のピアノで弾くのであれば、まずピアニストに音程に対する注意力が要求されます。その上で、旋律線を旋律らしく(ピタゴラスで)弾くところ、ピアノの音に対してできるだけ不快にならない音程を要求されるところを区別することが望ましいでしょう。そのために必要なことは、ただしく旋律音程がとれることと、耳で音程を微調整できるようになることです。これは、レッスンでいつもやっていることそのままですね。

音程の違いを感じさせないような表現を誇張した演奏(コンサートではやってみせましたが)をのぞまないのであれば、こうした配慮をもって演奏ができれば、十分に鑑賞に堪える演奏ができると思います。ただし、初期のチェンバロの伴奏として書かれたソナタは、通常の旋律音程ではかなり「気持ちの悪い」ものになってしまう可能性が高いと思います。

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