昨日、茨城県守谷市の茶房「かやの木」で行なわれた、春爛漫コンサートに出演しました。友人のピアノの先生、KEIさんが、地元の声楽家やピアノの先生とともに行なっているコンサートで、今年で3回目になります。私自身は、去年に続いて二度目の出演。演奏したものは、サラサーテ「マラゲーニャ」マスネ「タイスの瞑想曲」サン・サーンス「序奏とロンド・カプリチオーソ」、それに、クライスラーの「愛の喜び」「愛の悲しみ」「美しきロスマリン」の6曲。
プログラムはピアニストが選んだのですが、実は、今回の演奏には期するものがありました。去年までの私だったら、人前でロンカプなんか、絶対に演奏する気にならなかったでしょう。自分の演奏が、このレヴェルの曲でお金が取れるものになるとは思えなかったからです。教えることで目一杯の状態では、自分の練習に当てられる時間は非常に限られており、安全運転をするしかなかったから、というのが最大の理由です。そして、決定的に運動能力が足りない私が、こうした「ちょっとのミスが致命傷になる」曲を取り上げることは、非常にリスキーであると思っていたからでもあります。
30年近く前に弾いた、こうした「高い運動能力が要求される曲」を、一端ヴァイオリンを弾くことをやめた後は、人前で弾くことは決してないだろうと思ってきました。ところが、最近になって、少し考え方が変わってきました。「欲が出て来た」と言ってもいいかもしれません。
きっかけをくれたのは、2年ほど前のある生徒の言葉でした。「先生は、音も大きくてきれいだし、1小節やワンフレーズなら誰よりも上手なのに、どうしてきちんと曲を弾かないのですか?」
自分に、演奏家としてのキャリアがないことを私が言い訳に使っていたことを、この生徒はしっかり見抜いていました。体を痛めたり、奏法に悩んでいる専門家志望の生徒さんたちが来るたびに、「僕は演奏家じゃないから、体の使い方や奏法の基本的な考え方、音楽の背景なんかは話せるけど、演奏家としてどのように弾くかということは、自分の先生にきちんと教わってね」と、実際に演奏することからは逃げていたのです。もちろん、実質的にヴァイオリンからはなれていた時間が長く失ったものが大きい私にとっては、曲を仕上げることにはとても大きな障害がありますが、「そろそろ、自分のためにも、自分が教える生徒のためにも、きちんと演奏することを自分に課してみよう」と思い始めたのでした。実際に、いくつかの曲を見直すことを始めたのですが・・
その頃から、仕事が猛烈に忙しくなり、新しい奏法やアイデアを試す時間以外、自分のトレーニングの時間が取れなくなってしまいました。これではダメだ、と思っていた時に、今回の曲の提案があったのです。忙しい時間の中で、なんとか自分の練習をすること、そして、自分がどの程度の演奏をすることができるのか、これからのあり方を考えるためにも、敢えて「難曲」を弾くことにしました。
結果ですが・・・出来としては「最悪」でした。一週間前に新幹線に7時間も閉じ込められて体を痛め、3日間ほとんど練習ができなかったこと、本番3日前に楽器が壊れ(はがれ)、二日間練習ができなかったこと、そのために弦が安定する時間が十分に取れなかったこと、など、悪条件が重なってしまったことが、現実問題として大きな影響があったことは確かです。しかし、演奏を聴きにくる人たちにとっては、それは「言い訳」でしかありませんから、自分の問題として処理できなければ「演奏家」とはいえません。一週間以上前に完全な状態に仕上げていなかった私のミスでしかありません。
しかし、結果は別にして、私にとっては大きな収穫がありました。自分が組み立てを考えて練習することでどの程度のことができるようになるのかがわかったこと、そして、このくらいの曲であれば、まだまだ十分に通用する演奏ができるであろう感触を持てたことです。そして、久しぶりにレッスンに来たくだんの生徒の一言が、私にとっては最大の贈り物になりました。教え手にとっては、最大の財産が生徒なんだ、と、改めて実感しました。
「先生、弾き方変わりましたね。今までは、ただ大きくてきれいな音だったけど、音がちゃんと演奏している感じがする」
以前サラサーテに、「先生にレッスン料を尋ねることができるか?」ということを書いたことがある。私としては、レッスン料を尋ねられることは当然だと思っているし、抵抗はない。しかし音楽の世界では、レッスン料を尋ねることが失礼だと考えられてきたし、今でもその意識は根強い。このことについては今回は書かないが、最近の私と生徒のやりとりから、先生と生徒の関係を考えてみたい。
まず、非常に外形的なことから取り上げてみよう。一つは「レッスン料の払い方」である。
「そんなの、決まってるじゃん、封筒にレッスン料を入れて渡せばいい」
レッスンに慣れた人なら、こんな答が返ってくるだろう。私もこれが「当たり前」だと思っていた。ところが、しばらく前に「転校」してきた生徒さんが、現金をそのまま渡そうとしてびっくりしてしまった。それまでの私の「常識」からすると「とんでもないこと」である(この話をあるヴァイオリンの先生に話をしたら、「私なんか、いきなり一万円札出されて、おつりをください、って言われたわよ」と苦笑していたが)。
びっくりして話をしてみると、生徒さんは私がびっくりしたことに驚いていた。封筒でお金を渡すという意識や習慣がなかったのである。この生徒さんは、それまで大手の楽器店の教室に通っていた。お金を払う、とは、受付で「会計処理として」払うことで、当然現金を裸で渡す。「お礼」という気持ちはもちろんあるのだが、「対価」としての意味もはっきりしている。これはこれで当たり前のことで、「そっか、封筒に入れる必要、ないんだな」と考え方を改めさせられた。単に生徒本人の気持ちよさの問題に過ぎないのかもしれない。今では、数人の生徒さんが封筒を使わないでいる。全員が大手ヴァイオリン教室出身というところが面白い。
別にレッスンに限らなくてもお金を裸で渡すのは失礼だよ、と言う方も少なくない。これはこれで、ある程度定着した日本人の感性として理解できる。ただ、この話をある生徒さん(この方は、毎回封筒に入れています)としていたら、「中国ではお金を包んで渡す方が失礼になりますよ」と教えてくれた。要するに、「いくらあるかを目の前ではっきりさせないといけない」のだという。これはこれで面白い。文化の差なんだろうが、お金に対する感じ方が違う。日本人はお金を「お礼」に使うとき、金額だけではない「ある種の感情」を込めている意識が強いのに対して、中国人は「お金とは絶対量に意味がある」という、非常に合理的な考え方をしているのだろう。最近の若い人たちのお金に対する意識が、今までの日本人の習慣と相容れないものになっているのかもしれない。
要するに、こうした「文化の差」的な問題には明快な結論が出ない。現在、私は、「僕はどうでもいいけど、他の先生につくことになったら、封筒に入れて渡すようにしてくださいね」とお願いすることにしている。
こんなことをある生徒としていたら、「僕のところではかまわないけど、他の先生についたら態度を変えてね」とお願いしているがいくつかあることに気がついた。「呼び方」と「口のきき方」もその例だ。
私は「先生」と呼ばれるのが好きではない。単なるへそ曲がりだよ、と友人にはからかわれているのだが、どうしても馴染まない。私のウェブを見てから来られた生徒の中には、初めから「柏木さん、真樹さん」と呼んでくださる方もいるが、ほとんどの場合、スタートは「先生」である。「やめてください」とお願いすると、こんどは生徒の方で「先生と呼ばないと落ち着かない」というケースもある。別に、「呼ばれたくない」のは単なる感覚の問題なので、そういう場合は敢えて強制はしないが。
なぜ呼び方なんかにこだわるのか、というと、呼称は会話の意識と直結していると考えているからだ。「先生」と呼びかけるとき(ある種の侮蔑を含んだ「センセイ」は別だが)、相手に対してある種の緊張感を持ってしまうことがある。教える側にとっては、この緊張感が邪魔になることが少なくない。できるだけリラックスして、普段どおりの力を発揮してレッスンを受けてもらいたいと思えば、生徒が一番力が抜けている状態を作りやすくすることが大切だと思う。そんなことを考えて、呼び方も「口のきき方」も注文をつけることがあるのだ。
私の場合、ほとんどが大人の生徒さんなので、レッスンの後や行事(アンサンブルなど)の折に、一緒に食事をしたり飲みに行ったりすることがよくあるが、そういう経験を何度かすると、自然に「呼び方や会話の関係の落とし所」が定まってくる。なるべく「ため口」がききやすいように、こちらもフランクな話し方を心がけることが多いが、話し方が変化すると、緊張感がほぐれてくることは珍しくない。だから、なるべく「ため口」をきいてね、とお願いしている。
「レッスンのときはある種の緊張感がなくてはならない。そうでないと、ステージに上がったときに上手くいかない」という主張もあるだろう。確かに、緊張しても弾ける状態を作るためには、レッスンの場が役に立つことがあるのかもしれない。しかし、実際は、緊張しないことのほうがレッスンの効率が上がり、結果的には生徒のためになることの方が多いように思えてならない。だから、しばらくはこの方針で行くつもりである。もちろん、「他の先生に替わったら気をつけてね」とお願いすることは忘れないようにしている。
服装のことも話題になった。一昔前は、「女の子がレッスンに行くのに、ズボンを履いていくなんてとんでもない」「ジーンズでレッスンに行くなんて、なんて失礼な!」ということを「本気で」言う人たちがいた。最近はどうだろう、直接こんなことを聞くことはなくなったが。私は自分が服装に無頓着なこともあるのかもしれないが、どんな格好をしてきても気にならない(体の使い方を学んでいるときに、あまり厚手のもこもこしたセーターを着てくるのはやめてね、とお願いすることはある)。ただし、これも人のとり方はさまざまである。ある生徒が、他の生徒の格好を見て「あんな非常識な!」と怒っていた。確かに珍しい格好をしていたのではあるが、私自身は全く「礼を失している」という感覚はなかった。このケースも、「他の先生に替わったら気をつけてね」のケースである。
ちなみに、この「非常識な」格好をしてきた生徒は、レッスン料を封筒に入れて渡してくれている。こんな話をしていたら「お礼を裸で渡すなんて、私はそんなに非常識じゃありません」と言っていた。人によって「常識」「非常識」がこんなに違うことを説明したら、しばらく考えて「知らず知らずのうちに失礼なことをしていた可能性もあるんですね」とちょっと落ち込ませてしまった。反省材料です。
私は「先生」と呼ばれることが好きではない。子どもたちを「教えて」いたころから、極力「先生」とは呼ばないようにお願いしてきた。理由は・・・とにかく嫌だったんだろうと思う。
こんなことを仕事にしていると、初めての人たちはどうしても「先生」と呼ぶものだとおもっていらっしゃるようだ。それがもちろん、礼儀として正しいことなのだろう。だが、一つだけどうしても気にくわないことがある。「先生と呼ばれる人が言ったことは、呼ばれない人が言ったこととは価値が違う」という意識がバシバシ感じられることだ。
これは、二つの側面がある。一つは、「先生の言うことを疑うことができないと伸びない」という事実が忘れ去られていることと、「先生は偉いから従うのだ」と思ってしまう人が多いということだ。
前者については、あちこちで書いている。特に大人にとっては、先生の言うことの真意をさぐり、よくわからなかったら質問する、疑問を投げるなどの手段で理解を深めることが重要だ。それをしないと、先生自身が生徒の状況を理解できず、相応しくない教え方をしてしまう場合も少なくないものだ。
さて、後者である。
今回、初めて行った「一日クリニック」の懇親会で、何人かの参加者にははっきりと伝えたことだが、「先生はサービス業だ」ということを理解してほしいと思う。先生は生徒の要求に応える義務がある。そのためにレッスン料をとっているのだ。それは、レストランに入って美味しいものを期待することとなんら変わりはない。先生は「偉い」のではなく「自分にないスキルや経験を持っている」だけのことなのである。
「先生に質問する・口答えするなんておこがましくてできない」という方は多い。もちろん、それはもっぱら先生の側に問題がある。「俺の言うとおりにやればいいんだ」と頑なに主張して、生徒の疑問を封鎖してしまう先生は多い。私のところにも、そんな例はたくさん報告されている。ストリング誌やHPの記事を先生に持っていって質問したら「そんなものは忘れなさい」と一言の下に退けられた、ということを語ってくれる人は一人や二人ではない。そんな経験をしたら、恐ろしくて先生に質問などできなくなってしまうだろう。もちろん、私の書いていることが全て正しいとは限らない。私は自分が現時点で正しいと思ったことを書いているだけであって、それが普遍的であるとか未来永劫正しいなどとは思っていない。だから、人から「これは違うんじゃないの?」と指摘されることは大歓迎だ。そのことが自分を鍛えることにもなるのだから。しかし、多くの「センセイ」はそうではないらしい。
さて・・・私が習うときはどうするか・・・というと、「先生」と呼びたいと思う人にはそう呼ぶことにしている。教えることを生業にしているから、とか、議員だから・弁護士だから、という理由でその人を「先生」と呼ぶことはない。「先生」という言葉が「センセイ」にならないように、気を付けていこうと思っている。
また、大上段に振りかぶったようなタイトルですが・・・中身はあまり大したことありません(^ ^;;
以前(1993年)、あるアマチュアオケで書いた雑文です。
◎ 音楽の意味と価値
私たちは、なぜ音楽をするのでしょう。せっかくの休みに、わざわざ遠くから(の人もいますよね)集まってオケをやる。そのために、家庭内不和を起こしている人もいるかもしれませんし、 仕事に支障を来している人もいるかもしれません。それでいて、できあがった結果は、人様に胸を張ってお聴かせできるような代物か、というと、はなはだ心許ないこともたびたびです。かくいう私も、オケでコンマスなんかをやっているために、どうしてもオケの優先順位が高くなって、他のことが犠牲になることもあります。
「音楽は人生を豊かにする」「音楽によって、人々は心を和ませる」「音楽のもたらしてくれる感動が生き甲斐となる」等々、音楽の意味や価値を語ってきた言葉は数多いですが、はたしてそれらが真実を語っているのでしょうか。
自分にとってみれば、どうやら音楽というものは欠かせないもののようです。しかし、それで人生が豊かになったか、心が和んだか、というと、「そういうこともあったかもしれないなぁ」 と、あまり定かな感じを持ったことがありません。一体、なぜこんなに夢中になって、音楽を「する」のでしょう。
自己表現?いえ、そうとも言い切れません。特に、私がいつも言っているように、「楽譜を越えた自己表現は私たちにとって邪魔以外の何物でもない」と思っているからです。それに、自己表現なら、オケなんかやるのは時間の無駄 です。一人でさらって、ミニコンサートでもひらけばよい。お客さんが来てくれるかどうかはわかりませんが・・・(私がやるなら、特製のタンシチューかなんかでお客さんを釣るでしょうけど)
人を楽しませる?いえ、そうではないでしょうね。だとしたら、今の100倍は練習しないといけない。
ちょっと見方を変えてみます。大野さんが、ブリテンの戦争レクイエムをやるそうです。その中で彼は、中国人と韓国人の歌手を起用します。これには、強烈なメッセージが込められている。戦争で痛めつけられた日本人に対して、この歌手たちが歌う内容を知れば、そのメッセージがわかるでしょう。ここでは、音楽に一つの意味と価値が付与されます。しかし、こういう意味のあるものばかりでもないことはもちろんですよね。
自分にとっては、この疑問は一生ものだろう、と思っています。今は、私にとって音楽はある種の栄養のようなものだ、と思っています。栄養を体に取り込むのに、演奏した方がいいのか、聴いた方がいいのか、はたまた時によるのか、それは人それぞれだと思いますが・・・
こんな雑文を書いたのは、演奏していないとき、皆さんにもちょっと考えてほしいからです。私たちはなぜ音楽をするのか、なぜオケをやっているのか・・・そして、そのことが、オケをよくする可能性がある、とも思っています。
これまた過激な題名です(^ ^;; その昔(1994年ごろ)、ある音楽仲間とやりあった時に書いたものにちょっと手を加えました。
◎ 私はレコードを聴かない
私は、ほとんどレコード(今やCDですが)を聴きません。もちろん、何十枚かのCDと恐らく400枚近いレコード、数百本のカセットテープ(もうだめになっているでしょうね)を「所有」していますが。
中高生のころ、私は熱心なリスナーでもありました。毎日、FMファンをチェックして、エアチェックをし、レコード芸術を読んではレコードをあさっていました。そして、「だれそれの演奏はどう」とか、「いつの演奏はどーたら」とか、盛んに議論をしていました。ですが、ある日を境に、そんなことに全く興味がなくなってしまったのです。
レコードを聴かなくなった最大の理由は、楽譜が読めるようになったことです。楽譜を読む、ということがいったいどういう意味なのか、ということがわかりかけてきたのは、つい数年前のことでした。それまでは、「音符」や「記号」を読んでいただけなんですね。
そのことに気がつくと、自分の頭の中で、「理想的な音源を作る」作業ができるようになってきました。幸いにして、音を記憶することに難儀を感じたことはないので、シンフォニー一曲分でも、頭の中で作ってしまえば、いつでも聴くことができるようになったんです。
こんなことを書くと、あまりに傲慢に聞こえるかもしれませんが、「これはいい」「ここがいい」「ここはだめ」という聴き方をするのではなく、自分にとって一番良い(と思われる)音源は、自分で作ることしかできないのです。
私はレコードをほとんど聴かない、と言ったのには、意味があります。どんな演奏でも、一度は耳にしてみたいと思っているから、知らないものに出会ったら聴いてみることはします。でも、それ一度きりですね。印象深いものであればあるほど、自分の中にインプットされてしまうから、レコードを聴く必要がないんです。以前、「春の祭典」を初めから最後までイメージして見せたことがありましたよね。指揮者が曲を暗譜するのとはちと違うかもしれませんが、似たような作業をしているとは思います。
結果の分かっている演奏を、何回も聴いて感動する、ということは、私にはないようです。それを「不幸だ」と言われましたが、私はそうは思っていません。
また、一緒に演奏会を聴きに行きましょうね。私も、演奏会は大好きです。