柏木真樹 音楽スタジオ

トップページ > ストリング > 第7回〔大人と子どものレッスンの違い〕lesson1 総論

1. レッスン1・・・総論

今回から二回ほど、大人と子どもの受けるレッスンの違いについて、歴史的な背景を踏まえながら考えてみます。本来ならば最初に述べるべきところですが、実践的な身体機能や音感の違いを少しでも理解してから読んでいただきたいので、このような順序になりました。今回はすぐ役に立つ紙上レッスンにはなりませんが、今後の連載をよく理解していただくために必要なことですので、お付き合い下さい。

● 80年代までのアマチュア音楽界の背景

楽器の訓練は、長い間「子どもの頃から」続けていくものであると考えられてきました。音楽をすることが職業的である場合がほとんどであった時代の名残りであるともいえるかもしれません。昔は、音楽を学ぶということはすなわちプロを目指すものであり、なりそこなった少数の人や情操教育として音楽の教育を受けた「上流階級」の子女だけがアマチュアの音楽家であったのです。戦後の一時期、大学や社会人になってからオーケストラの楽器を始める人たちが急速に増えたのは、「アマチュアとして子どもの頃から音楽教育を受けることができなかった人たち」が大人になってから興味のある分野に参入できるようになったからでしょう。60歳代以上で学生の頃にクラシックの楽器を始めた方が意外に多いのは、このような状況の結果だと思われます。 復興期が終わり高度成長期になり、経済的に余裕のある「中産階級」が増え、家庭の電化などによって「お母さん」に時間的なゆとりができると、子どもに対して音楽(主としてピアノ)を学ばせることが流行しました。また、1960年代から急速に増えた音楽大学・短期大学の卒業生が「街の先生」となり、子どもに対する音楽教育が急速に普及し始めました。また、大手楽器メーカーの影響力が強くなり、学習現場に様々な楽器が持ち込まれたり、システマティックな音楽教育が登場するようにもなりました。現在30後半から40歳代の方の多くが、幼少の頃にピアノに触れた経験があると思います。団塊の世代の直後のこの世代は、小さい頃に音楽に親しんだ人が急激に増加したと共に、高学歴化が顕著に進んだ世代でもありました。

高度成長期が終わった70年代から80年頃にかけてが、アマチュア音楽家が活躍した最初のピークだと思います。前述した60年代に音楽の基礎教育を受けた子どもたちが大学へ進んだり社会人となった時期です。しかしこの時代のアマチュア音楽家は、どちらかというと小さな頃から始めた「腕自慢」が多かったのではないかと思います。「大人になってから楽器を始めるなんて」と思われていた最後の時代でもあるのです。一方で、この世代によって拡大された音楽マーケットが、結果的にはその後のレイトスターターの増加のために重要なバックボーンとなりました。

80年代に入り、ある年齢層に達したアマチュア音楽家の数が増加すると、受け皿となるアマチュアオーケストラ、アンサンブルも増加の一途をたどります。70年代までは「私鉄の特急の停車駅ごとにある」と言われた東京近郊のアマチュアオーケストラが、「急行の停車駅ごとにある」と言われるほどに急速に増えたのもこの時期からです。このことがアマチュアのすそ野を広げ、大人になってから楽器を始めることへの抵抗感が薄れていきました。ですから、80年代後半に楽器、特に弦楽器を始めた人たちは、それ以前の70年代から80年代にかけて「アマチュア市場」の中心をになった世代(1950年代から60年代生まれ)が多かったと言えます。この世代の人たちは、先程述べたように小さな頃にピアノに触れた人も多く、音楽に対するハードルが低いこともあったでしょう。学生時代にオーケストラの楽器を始めた人たち、いわゆる「幼児音楽教育」を受けていないアマチュア奏者が同世代に多かったことも、この世代が大人になってから楽器を始めることへの抵抗感が少なかった理由の一つだと思います。パソコン通信や初期のインターネットがこの世代に一番使われていたことも重要な要素です(パソコン通信や初期の頃のインターネットは、利用者の年齢構成に非常に偏りがありました。ニフティやヤフーなどの当時の調査を見ると、30歳代が圧倒的に多かったのです)。

● 大人が音楽を楽しむ時代へ

90年代に入り、少子化、バブルの崩壊とインターネットの爆発的な普及が、アマチュア音楽界を一変させました。バブルの崩壊が価値観の転換を促し、「モノ」よりも「ソフト」へと人々の興味が移り、「少子化」と「結婚の二分化」が時間を自己投資にかけられる大人を増加させ、そして情報の多元化が多様な分野への挑戦を後押ししたのです。

「適齢期がなくなった」といわれる結婚観ですが、確かに早婚、晩婚が完全に二分化した観があります。早婚のカップルは子どもの手が離れるのが時期的に早くなり、晩婚の方は自分のために時間を使える若い間の期間が長くなりました。また非婚者の増加も著しく、経済的にも「自己投資」ができる層が厚くなったともいえるでしょう。そのような人たちが向かった先は、文化・芸術活動であり、ボランティア活動であったりします。子どもの数が少なくなり「子育て」に追われる期間が相対的に短くなったことも、こういった活動に取り組む人たちが増加した大きな要因です。

このような「音楽を始める側」の状況に加えて、「音楽を教える側」の状況の変化も、大人になってから音楽を楽しむ人を増やす力になりました。

かつては、音楽を教えるとは、すなわち「子どもや学生に楽器を教える」ことでした。大人になってから楽器を始める人は数少なく、また子どもの頃から音楽に親しんできた人たちも、大人になってからはレッスンには通わなくなるのが普通だったのです。少子化は、「音楽を教える側」に大きな危機感をもたらしました。すなわち「マーケットの縮小」です。大学・学部の新設が規制される前の「駆け込み」で新たな学部・学科の新設がブームになった90年代後半にも幾つかの音楽学科が新設され、音楽大学を卒業する「プロ」は増える一方で、需給関係のバランスを失した状態が生まれるのは明らかでした。もちろん、「音大を卒業して嫁になる」という発想を持つ人が減り、女性の「プロ」がマーケットに登場する割合が増加したということも、先生側の供給が増加している一つの要因でしょう。

一番早くこの現実に気がついたのはピアノの先生たちでした。ピアノはアンサンブルをすることが難しいので、ある程度の年齢になってから始める人はあまりいませんでした。高校や大学で楽器を始める人はほとんどが吹奏楽やオーケストラがきっかけとなるので、ピアノに目が向くことが以前から少なかったのです。ところが、大人に「市場」を求めた先生たちによって「大人になってから始めるピアノレッスン」が新しい「商品」として世の中に登場し、それを売り物にした教室があちこちで見られるようになりました。80年代後半のことです。ピアノは電子ピアノという「音を外に出さずに」練習できる環境が早くからありましたから、楽器の音が近所迷惑になりやすい日本の住宅事情にマッチしたものでもありました。

90年代、特に後半になると、「先生過剰」状態は他の楽器、特にヴァイオリンにも顕著に見られるようになりました。大手の楽器メーカーや楽器店が大人向けのヴァイオリン教室を大々的に宣伝するようになったのもこの頃です。そして、いわゆる「町の先生たち」も大人を教える必要に迫られるようになってきました。

● 教える側の状況

こうしてできた「大人を教える側の論理」は、多くの場合、相異なる二つの思考回路で成り立っていました。一つはピアノを大人に教えることをベースにした思考で、もう一つは子どもを教えるメソッドを元に大人を教えるようになった指導です。

ピアノはかなり訓練しなければ「何でも弾ける」ようにはならない楽器です。もちろん他の楽器もそうですが、特にピアノは「人様に聴いてもらう、ないしアンサンブルする」ためのハードルが高く、大人にピアノを教えることは即ち大人から始めてもできることを限定して教えることにつながりました。従って、「あの一曲が弾けるように」「一人で楽しめるために」といったフレーズが大人の生徒を集める謳い文句になったのです。たくさんの生徒を抱える「大手の」教室の中には、ヴァイオリンを教えるときにもこの発想でプログラムを組み立てているところがあります。こういったプログラムは、「アンサンブルを楽しめるようになる」ということがセールストークのプログラムでも、そのアンサンブルは「その教室に来た人と一緒に弾く」というのがほとんどなのが実態で、オケや通常の室内楽などは「初めからできないと諦めている」教え方だと言わざるを得ません。

一方、子どもを教えてきた個人の先生たちが大人を教えるようになると、それまでの子どものためのメソッドを大人にも応用しようとしました。子どものためのメソッドしか存在しない以上、これはやむを得ないことだったともいえますが、大人と子どもはさまざまな点で明らかに異なるわけであり、それを理解していないということは多くの問題を生んできたのでした。

このような状況下で、インターネットのウェブサイトなどに後押しされたレイトスターターがたくさん生まれるようになったのです。

● 大人を教えることの現状

述べてきたような状況下で、大人を教えることは多くの先生たちにとって手探りの状態が続いています。はっきりと「大人をどうやって教えたらよいのかわからない」と口にする先生も少なくありません。私が危機感を持っているのも、このような現状を見せつけられているからです。

私が出会ってきたレイトスターターのほとんどが、上記二タイプの先生に習ってきた人たちです。それぞれに問題があり、レイトスターターがすぐに限界に達してしまう結果を生んできました。私が出会ったレイトスターターの中で「あ、上手いな」と思う方は、実はある程度独学で努力した人たちが多いのです。その努力は半端なものではなく、正しい指導を受ければしなくてもすむ回り道を通ることにはなりますが、大人に相応しくない指導を受け続けた人よりも柔軟に考えることができるようになるのでしょう、ご自分に合った奏法をまがりなりにも見出している方が何人もいらっしゃいました。

しかし、こういった人たちに共通することは無駄をたくさんしているということです。特に右手に顕著で、非常に「複雑な」ボウイングをしている方がほとんどです。ご本人はそれでなんとかなっているし、周りも「達者なアマチュア」として問題を感じないようですが、とてももったいないことなのです。そんな人が改めてレッスンにつくと、右手も左手も一からやり直しと言われてしまうことが多いものです。

大人に相応しいメソッドは残念ながら存在しません。「今ない」のではなく「あり得ない」のです。成長期を前にした子どもと違い、体も頭も完成していることがその理由です。肉体的には個体差を超越するような奏法はありませんし、大人は思考回路も確固たる自分のものをもっていることが多いからです。「メソッド」としてマニュアル化できない理由がここにあります。そこで、特に大人になって初めて楽器に触れる人たち向けには、基本的な部分をしっかりと確認した上での柔軟な「教え方」「学習法の構築」が必要なのです。

「子どもを教えるのは大変だ」ということはよく言われます。確かに、子どもを教えることには子どもを教えるなりの難しさがあります。しかし同様に、大人を教えることには「大人を教えるなりの」難しさがあるのです。そのことを理解している先生がどのくらいいらっしゃるのか、非常に心細い限りです。

● 大人として扱ってもらえないためにうまくいかなかった実例

四月号で取り上げたTさんは、まさに肉体的な条件を考慮することなくレッスンを重ねてきた実例です。彼女のように大人になってから楽器に初めて触った人が間違った指導を受けていると、自分の進度や状況を理解・比較できないという点で致命的です。アンサンブルで遊びに行った先で友人に指摘されなければ、いつまでたってもそのままのレッスンを続けていたでしょう。六年以上レッスンをして弓を三分の二しか使えていないことに先生ご自身が疑問をもたれなかったのも不思議ですが、彼女の場合、さらに左手にも大きな問題がありました。自分で「音痴なんですぅ」と笑う彼女ですが、確かに音程感覚が全くといっていいほどありませんでした。そのためなのでしょう、前の先生はポジション移動を全く教えずにきていました。六年目にして初めてサードポジションを教えてもらった、ということです。この進度ではいつまでたっても「普通の曲」を弾けるようにはならないということも問題ですが、同時に時間をたくさんかけただけ「体に合っていない悪い奏法」が身についてしまうことにもなりかねません。

音程感覚がある程度つかないとポジション移動を教えるわけにいかないことはよく理解できます。だからといって毎週のように通っているレッスンで五年もの間ポジション移動を教えられない状況に生徒を置いておくということは、はっきりいって教える側としては大きな問題があると思います。

Tさんの場合、頭で音が鳴る訓練も必要なのでした。レッスンの度に声を出すことを行い、私がヴァイオリンを弾いて(ピアノではない!)ソルフェージュをくり返しました。その結果ほんの数回のレッスンで、かなり正確な「ドレミファソラシド」を歌えるようになったのです。楽器を弾くときにも、押さえる場所も、楽器の鳴り方、純正な和音を駆使して、再現性のある音程を作る努力をしました。何を弾くときにも、1の指、3の指は開放弦と合わせてから弾く習慣を徹底的に身につけてもらいました。結果的に最初にイメージしていたよりずっと早く、四ヶ月ほどでポジション移動をしても問題ないだろうというレヴェルに達したのです。

もう一人、Sさんという女性の例をあげておきます。

この方は、日常生活から体の使い方に問題がある状態でした。ヴァイオリンを始めて八年にもなるのに、指は全く開かず、常に「何処を押さえるのか博打を打っている」状態でヴァイオリンを弾いていました。先生は「指を押さえたままで」「力を抜いて」ということはもちろん指示してきたそうですが、それが何故できないのかということを考えることをしないでレッスンを続けてしまいました。

私がレッスンをすることになり、根本的に奏法以前の何かが問題であると感じました。二月号で触れた「脱力」のチェックをすることで、この方の最大の問題点が明確になりました。それは、「常に肩を変形することで腕を動かしている」ことだったのです。最初のレッスンで私は衝撃を受けました。本人は完全に脱力しているつもりになっていても、何をやっても肩の変形がついてまわるのです。まず肩の問題をクリアする必要に迫られました。

お仕事がほとんどパソコンの前に座ってのものですので、椅子に座る座り方やキーボードの叩き方からスタートです。次に歩き方。さらにいろいろな物を持ってもらって、肩の変形を伴わない体の使い方を覚えてもらいました。何十年もそうした生活をしてきたのですぐに劇的な変化があるわけではありませんが、徐々に「楽に」指を押さえられるようになりつつあります。右手はそれだけで劇的に変化しました。腕の重みをかけたまま速い弓を使えるようになったのです。同時に、毎月のように整体に通わなくてはならないほど重症だった肩こりも、嘘のように楽になったと言っています。惜しむらくは、八年前にこの点を注意して楽器を始めていれば、変な癖もつかず、もっと素直に伸びたであろうということです。

このような例はまだまだたくさんあります。大人を教えることに悩んでいる先生方には是非考えていただきたいことなのです。そして、最初に師事する先生がとても重要な存在であることは言うまでもないでしょう。

● イメージすること

大人になってから楽器を始めた人や大人を教える先生に特に考えていただきたいもう一つのことは、どのような楽器弾きになるかというイメージをはっきり持つことだと思います。これは、子どもに対してイメージを作るよりずっと易しいことでもあります。大人は頭を使うことに慣れているからです。

体の状態や頭でどのような音が鳴るかということをしっかりとチェックした上で、必要なことを積み上げていった結果がどうなるかということを、先生も生徒も同じように認識して欲しいのです。

イメージというと、どうしても音楽的なことに向かいがちですが、フィジカルなこと、また練習法についても、同様にイメージを作っていくことが必要です。それがないと、レッスンがいつまでたってもその場限りの「モグラ叩き」になってしまう可能性が強いのです。

● 言葉を使うこと

最後は言葉の重要性です。「このように弾きなさい」ということと「このように弾いたらこうなります」ということの違いを、教える側は理解して欲しいということです。

私のところに「助けを求めて」来る生徒さんの多くが、「先生が説明してくれない」という悩みを抱えています。実際に教えている生徒さんだけでなく、ネット上でメールをいただく方の中にも、「先生に、こんな音で弾きなさい、と言われたので、どうやってそのような音を出せばよいのですか、と質問しました。先生はそれには答えてくれず、弾いて見せてくださるだけです。イメージして、ということと、練習をくり返して身につけること、とだけしか言ってくれません」という状況に置かれている人がとても多いのです。

これには、先生の側に子どもと大人の違いについての大きな誤解が根本にあります。

「真似をして」と言われると、子どもでも大人でも表面的な体の動きを真似しようとします。このこと自体は全く違いません。成長期にある子どもは、形を真似していると結果的に先生と同じような体の使い方を覚えていく、ないし自分に合った体の使い方を成長と共に獲得することができまる可能性が高いのです。しかし、大人は既に出来てしまっている自分の筋肉の動かし方や関節の変形をそのままに真似をしてしまうのです。ですから、表面的には「似ている」状態でも、やっていることは全く違うことが少なくありません。

大人が自分のそれまでの日常に沿って体を使ってしまう状態を脱するためには、体を動かす指令を意識的に出す必要があります。日常で身についた体の動かし方ではないのですから、はっきり認識して体を使わなければならないのです。そのためには、頭で理解して体を使うことが重要です。ですから、教える側はその指令がどのようなものであるかをきちんと説明しなくてはなりません。言葉で説明できることが必要なのです。そして「訓練して体で覚えること」は、正しい体の動き方を理解してからでなければやってはならないのです。

訓練を重ねればできる、真似をすればできるようになる、ということは、このように大人の場合「ただちには」当てはまらないことがほとんどです。腕の使い方でも、「腕を全部使って」などという抽象的な表現では伝わらない場合が多いと思った方がいいでしょう。生徒の方でもわかったような気になっていても、勘違いしていることが大変多いと思います。

**************************

【コラム】APA(日本アマチュア演奏家協会)

日本で恐らく唯一の、アマチュア演奏家の個人的な全国組織であるAPAの名前はご存知の方も多いだろう。私も、学生の頃からその名前は知っていた。どちらかというと「腕達者な人たちがアンサンブルの仲間を見つけるところ」というイメージがあり、敷居が高いとお思いの方も多いのではないだろうか。私自身、そういった印象を持っていた時期もある。

かつては、情報が今ほど楽に広がる状況が存在しなかったので、アマチュア演奏家の核としてAPAの存在は貴重なものだったが、現在でも29都道府県に1100名を超える会員を擁している。

APAは1974年に発足したアマチュア演奏家の集まりである。「いつでも、どこでも、誰でも」アンサンブルを楽しもうということがオリジナルのコンセプトであり、もちろん会員になるために技術的なハードルはない。年一回の年次大会や音楽祭といった全体行事の他に、各地にある「支部」がアンサンブルの例会などを開いていることが主な活動である。

本来「誰でも」参加できるAPAが「腕達者な人の集まり」というイメージを持たれている理由を、「組織が大きくなり助成を受けるようにもなると、プロとの交流も増え、発表演奏会のような形式の大会も行われるようになった。そのことが結果的に発表をする技術レヴェルにない人を後込みさせることになったのかもしれない」と代表のNさんは語る。

そもそもが「自分がアンサンブルを楽しむための」集まりである以上、会のシステム自体が初心者やアンサンブル未経験者を育てることを目的としているわけではない。しかし、「CD例会」と呼ばれるアンサンブル未経験者や不慣れな人たちに合奏を体験してもらうための集まりも行われており、「意欲のある方なら是非参加して、アンサンブルの腕を磨いて、どんどん世界を広げていただきたい」(Tさん)と、これからも会員の広がり、特に若い世代の新しいメンバーの参加にも期待を寄せている。

各地の例会は、主宰する会員の趣向で様々な形がある。集まってわいわいアンサンブルを楽しむタイプも発表形式のものもあり、特に首都圏や関西圏ならば、コンセプトの合う無理のない例会を見つけることができる可能性が高い。

また、毎年秋には河口湖畔で音楽祭が開かれている。参加者による様々な形態の合奏だけでなく、講師の先生たち(今年はクァルテット・エクセルシオ)と一緒に演奏するチャンスもあり、毎年100名以上の参加者がアンサンブルを満喫している。今年も10月に予定されており、現在参加者を募集中だ(8月末まで)。グループでも、また「こんな曲をやりたい」という個人でも参加が可能。普段、アンサンブルのパートナーが見つけられない方にはとても良いチャンスだ。もちろん、全体の合奏だけの参加もできるから、アンサンブルを体験してみたい方にはよいチャンスになるだろう。曲目や募集要項はウェブサイトを参照していただきたい。

APAウェブサイト:http://www02.so-net.ne.jp/~apa/

 

APAのHPは移転しています http://www.apa-music.org/(2009.11月現在)